Diary
Posts tagged with photography
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思い出の撮影
2017-02-15 13:52:00 UTCスタジオを借りて、大切なものの撮影をしてきた。この三つのものは全てじぶんにとって大切で、特別なものだ。そして、改めて撮影するという記憶を通過させることで、この3つへの意識がより明瞭になったような気がする。 思い出の品、という言い方があるが、思い出の残るような形でてにいれたものだとか、もしくは使う中で思い出とともにあったものは僕にとって思い出の品となる。ということが、今回の撮影で明らかになった。 撮影の前後で、ぼくはこの3つの品の形、大きさ、重さ、質感etcに対して以前よりずっと気を配るようになった。というより、今までは気にしていなかった、といえるほどに、ぼくにとってこの3つは入手経路が思い出に残るような強いものだったので、物自体の特性についてはそれほどまで意識していなかったことが改めてわかった。
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忘却と記憶の機械
2016-12-08 08:30:00 UTC「写真ってどうやって撮るんだっけ」おととい考えているじぶんがいた。かまぼこハウスという大学近くの大きなキッチンがあるところで写真を撮りながら、シャッターを押したりする度に、どうやるんだっけ。と、自分の指と目がする行為を見つめたりしていた。けれど、写真に写るのは人の体や、目線ばかりで、ぼくがまさに気に留めている自身の指や目の写真はその中にはない。自分が見ていること、考えていること、というのはこのカメラには写らない(らしい)。カメラの知覚と、ぼくの知覚は別物らしいということがわかり、ぼくは今日もまだ人間なんだな、と文章を打ってみたりしている。いまのこの状況は、機械を通して、じぶんの頭の中のことばをワープロみたいに、残す作業で。Evernoteなんかにぼくはたくさんメモを残したりしているから、やはり、ぼくの一部の記憶は機械のなかにあるんだな、なんて考えてみたりする。 冒頭の行で書いたことに意識を戻してみると、そこには、「じぶんがいた」、というなんとも他人事な表現があって、やはりおとといと今日のじぶんは別物なんだな、ということに妙に納得している。今日ふとであった解離性障害という文字のつながりを思い出しながら、じぶんの持っている時間というのは、一本の糸ではなく、無数の結びがあり、所々に切れ目もあり、それらが床に散らばっているような状態なのかもしれない。と少しばかり手を休めて空想したりする。ー記憶は果たしてどこにあるのだろうか。人の顔と、その人との関わりの歴史と、名前とがすぐに出てこない。ことがある。だから、さきほど空にカメラを向けていた時に、1人がぼくの名前を呼んだんだけど、だれだかわからなかった。というより、誰だかわからないふりをして、その人の名前を間違えてしまうという状況から逃げて、その人に「君は誰」と尋ねた。返って来た答えと、じぶんが想像していた答えとが一緒だったので嬉しかった。じぶんが一度話をしたことのある人の顔と容貌を覚えていた、ということが、とても嬉しい。 「写真」という事象や、そのことについて考えたりする。どうやって撮るんだっけ、というおとといの疑問は、一体どういうことを意味しているのだろう。ボタンを押せば、写真は撮れる。自転車の乗り方を覚えた、みたいなことではなく、もう、ボタンを押せば写真は撮れてしまうのだから、おとといの疑問は、身体的動作の忘却ではない。「なんでこれを私は撮っているのだろう?」という疑問や、意味を求めているようにも思えないし。一つの可能性として、カメラを構えた時と、ファインダーを覗きこんだ時の、そのわずかな間に、人格が入れ替わって、記憶の保存と接続がうまくいかなかったのかもしれない。おとといから2日も経ってしまったので、あの一瞬の感覚を思い出せない。しかし、違和感を覚えた、ということは覚えている。 この写真は、そういった違和感を覚える2時間とか1時間とか、それくらい前にカメラが記録していたものである。時々、じぶんが撮った写真であるのに、まったく覚えていないものが写り込んだりしている。誰か他の人や、もしかしたら猫やツチノコがシャッターを押した可能性を完全には捨てきれないが、おそらく今のじぶんには記憶されていない過去の自分自身が撮ったものなどに出会うと、ひどくうろたえる。ひどく喜ぶ。ひどく褒め称える。ひどく恥ずかしくなる。ということが起こり、忘れる、という行為はじしんへの過去から未来へのサプライズとなり、他者との共同作業を自分1人で完結したみたいで嬉しくなる。 2016.12.08 17:58 at SFCメディアセンター2F