Diary
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モノ、記憶の貯蔵庫
2017-02-09 14:09:00 UTC時々、大切なものがなくなる。 それはもう様々で。もう触れることが、思い出すことが、叶わない。ものの形や、他者との関係性が、変化・破綻してしまうだとか、それ自体は変わらないのに見え方が変わってしまって、心がもう、そこに敵わない、というような。それはもう様々で、どのようにぼくはこれまで、大切なものをなくしてきたのだろう。それは思い出すたびに、過去の出来事から、現在に引っ張られ、また関係性を新たにする。そしてまた失う。かといって、最初になにかを持っていたか?と聞かれたら、失うという表現は傲慢かもしれない。 記憶というものは、生きる上で全体量を増やすから、それがどんなに大切だろうと、母数が増える関係で割合が小さくなる。だから、それがもし大きい石でないならば、しっかりバリケードをつくって、洪水の為に君は備えなければならない。ふとした拍子で思い出すように、ふとした拍子で、水に濡れ、それはふやけ、境界線が曖昧になる。乾いたとして幾分かは蒸発をしている。 だから、ぼくは瓶が好きだ。透明で中身が見えて、そして、内側と外側が区分されている。ガラスが溶け出して、内側のものの内側に侵入することはないだろう、という信頼が、瓶になにかつめるという発想にぼくをいたらす。かといって、保存することと、使用する状態は平行できないから、使うときは瓶の外側に彼らを出さなければならない。もしかしたらだけど。壊れてしまうかもしれないけれど、外に出さないと、試さないと、使えない。そこには明確のYESとNOがあり、黒は白でないように、瓶には内と外がある。外には鬼がいるかもしれないけれど、井戸の外には、もっと美しいfitした瓶があるかもしれない。 数日前に、大事にしているグラスが割れた。それは円錐の尖っている方を切り取った、富士山の立体を模した形をとっている。富士山グラスと呼ばれていて、ビールを注いだりすると、泡のおかげでそこにはFujiが登場する。大層うすいガラスで、すぐ割れてしまいそうだから、使うときや、洗うときは慎重だった。彼を使って液体を口に流したりすると、飲み終えるまでグラスを眺めたりする。大切に使いたくなるような導線がたくさん敷かれていて、購入した時に桐の箱に入ったりなんかしていたから、引き締まった。「この子を大切にしてね。」と、作者からのメッセージが詰まっているようだった。 それがいざ割れてしまうと、なんだかあっけなかった。同居人が洗い物をしている時にそれは割れてしまった。彼のことを気遣って、「ああ、いいよ。怪我はない?」なんていったしまったけど、ぼくは少し戸惑った。嬉しいことではないけれど、悲しいとも違う。明確なのは、<割るならぼくが割りたかった>ということで。彼を責める気にはまったくならず、ぼくは、お気に入りのグラスが割れてしまったことにどのような態度を持てばいいのか、それを考えていた。「また買えばいいか。」と思ったことも事実だが、そのような態度で、大切なものにむきあうのをよしとしたくなかった。それは、また百貨店などに行けば、買える代物であるけれど、割れたグラスとの記憶とか、それはどうすればいい。 ぼくはモノを手に入れる時に、その購入経路や、その購入の際の体験を大事にしたいとか思ってしまう。長く使うことが前提のものなら、美しくそれを知りたいし、手に入れたい。モノを使用する際に、それを手に入れた時のことをよく思い出す。購入体験も含めて、ぼくはモノだと思うし、新しい記憶の貯蔵庫としてモノは役割をはたす。だから、おなじグラスを買ったとしても、それは形はおなじだけれど、染み込んでいる記憶が違う。かといって、家にある2つの同じグラスそれぞれに、固有の記憶が染みついているわけでもない。ただ、それ一つ、として認識できて、見分けられるような一つのものとの絆は深く特別になる傾向がある。 星の王子様で、「飼い慣らす」という言葉が出てくる。フランス語では <apprivoiser>という単語らしいが、ぼくはフランス語話者でも研究者でもないので、文章の前後の関係でこの「飼い慣らす」と訳された言葉を初めて読んで、ずっとこころに残っている。ぼくにとって、モノを所有するというのは、それを気にかける努力をしていたり、使い続けられるよに努力している感覚にたいして、所有感が生まれる。だから、モノを大事にしない、というのはぼくにとっては所有していないのと同じで、自分で購入したけれどどこにあるかわからないものは所有物ではない。反対に、じぶんの権利が及ぶものではないけれど、気にかけたり、よく思い出すものは、自分の所有物のような感覚がある。大切にするという関係は、関わりを持ちはじめたら、その後努力して互いに馴染ませて行く、ということなのかもしれない。 だから富士山の形をしたグラスが割れた時の「割るならぼくが割りたかった」というのは、その馴染んだグラスとの関係性に対して、最後までじぶんで責任を持ちたかったということなのかもしれない。ぼくは洗う時に、いつも割れないように、丁寧にあらうように心がけていたから、いつかは割れてしまうだろうな、とも思っていた。(これは人間関係においての感覚とも近く、大切にしたい人との関係はぎこちなくなるし、本当に好きな人にはなかなか声がかけられなかったりする。)だから、そのグラスが割れるならそのグラスが割れる瞬間に立ち会いたかった。ただ、グラスというのは割れたからといって、グラスを構成したガラスがそこにしっかりとまだあるのだ。同じ質量を持っているのに、それがどのような形をなし、機能を果たすことができるのか、ということが大事であると目の当たりにした時に、モノとは、ぼくにとって物質ではなく、やはり記憶の貯蔵庫なのだと確信した。
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はじめまして
2016-11-23 12:55:00 UTC愛着の保存や、記憶の定着というのは私にとって粘着のある言葉で。5分ほど前に話した人の顔さえ覚えられない私は、コミュニケーション失格だな、なんて自暴自棄になる。申し訳ないですが、覚えられない。大学の友人の顔、キャンパスでお会いしても、名前が出てこない。どこで会って、なにを話したか思い出せない。人とのつながりを大事にしたい、なんていうのに、人の顔さえ覚えられません。今日、G1 Collegeでお会いした人たち、顔は知っているけれど、あまりにも他人だった。久しぶり、というより、「どうもはじめまして。以前、あなたによく似たあなたとお会いしたことがあります。」と心の中では挨拶をしていた。ただ、それを伝えたところで、相手は喜ばないだろうから、ああいう社交的なpartyでは、1人廊下にでて踊っていたい。ルームには見たことのある顔がわんさか並べられていて。なんだか骨董通りのお高いブランドを外から眺めて歩いているみたいだった。 少し前に、どこかで、誰かに、はじめましてと挨拶をした。どこの誰かも覚えていない。ただ、ぼくはその人に、3度目のはじめましてを言ってしまったらしい。消えて無くなりたい。もう人と喋るのは今日で最後にしよう。のにそしたら彼/彼女は、「あなたとは会ったことあるよ。でも、私は何度でもはじめましての挨拶をするよ」と口にしたそれはジョークのような会話だったけれど、心底ぼくの記憶は彼/彼女に惚れてしまった。ぼくはこの人のことを何度でも忘れられる。そして、何度でも、時間をかけて思い出したい。思い出したい人ができた。これは素晴らしいことである。顔も名前も思い出せないその誰かに、ぼくは強く惚れている。もう一度彼/彼女に会いたい。そして、初めましてを挨拶をしてみたい。そして、前のことを指摘されたりしながら、少しだけ思い出しながら、恥ずかしくなったりしながら。その凍結された記憶を温め直して、も一度思い出して、その誰かに、とびきりのはじめまして(!)、を伝えたい。 だから、ぼくがあなたとお会いして、名前を思出すことができなかったり、目が泳いだり。なにか気まずそうにしている時は、頭のなかで、必死に記憶を探しています。記憶というものが、苦手です。あなたとの会話がぎこちなくても、つまらそうにしていても。それは僕が勝手にパニックになって、水を欲しているだけです。愛想を尽かしてしまったら申し訳ないですが、今日あって、話をした方々、またお会いしたらはじめましてと挨拶をしても、それはそういうことなんだなぁと、思っていただけたら幸いです。