図書館の中の大陸移動
2017-01-16 04:35:00 UTC
数メートルの移動が、大陸移動なんかになったりするから、図書館は素敵である。というのも、図書館で本を借りる時なんかは、じぶんの歩いている場所というのは、google mapの赤いピンではなくて、じぶんを挟むように存在している棚によって把握される。本の背表紙に書かれている756とか、318とか、そういった3桁の数字にはそれぞれ意味がある。
例えば、700~740は歴史、550~580は経済の本がまとまって置いてある。きっと図書館を使う人たちには、それぞれがよく行く場所なんかがあって、あそこの本棚がよく使う本棚で、つまりその人は、ドイツ文学に興味がありつつ、レイアウトにも興味があるひと。なんて風に、図書館において、場所と興味というのは、結びついている。そして、たった一つの本棚を超えただけでそこには、中国文学や戯曲なんかが集まったりしていて、数メートルの移動が、大陸移動なんかになったりする。だから、図書館は世界地図であり、縮図であり、各人のテリトリーである。
そして、一歩、あたらしい本棚と本棚の間に足を滑らせると、「ああ、ぼくはいま、新しい国を旅しているんだ。」という旅行者のような気分になれる。たった数歩の移動の中には、ワインの歴史、日本酒の歴史、密造酒の歴史なんかがつまっていて、それらをしかとあじわって進むなら、一歩には何ヶ月もの時間を費やすことになる。そして、その、いままで踏み入れたことのない本棚と本棚との間というのは、風景としては他の本棚との隙間と変わらないはずのに。なぜか、どうしてか、どこも吹きぬける風が違うのだ。
それは背表紙の番号が、色が、大きさが、違う。といった表層的なことだけではないのかもしれない。その本の内側に書かれている内容だとか、その著者だとかの空気が漏れ出していて、その1メートルに満たない本棚と本棚の間の風の通り道のデザインに一役買っているのかもしれない。もっと妄想を広げるなら、それまでその道を通ってきた人たちの足跡が、そこに詰まっているのかもしれない。
こういった原稿用紙の約二枚分の妄想を書くのに、図書館の一歩というのは、十分なほどに濃密な時間が流れているように思う。新しい本棚と本棚の隙間を歩くときに、ぼくは、「ああ、ぼくはこれまでとは違った興味をもち、その世界にまさにこれから触れようとしている。」と、まるで旅行者のように、気持ちを高ぶらせて、歩く。図書館の中を歩く物理的なじぶんの立っている位置というのが、頭のなかにある抽象的な興味の座標として機能をし、まさしく新しい世界に足を踏み入れた、という、偉大なスパークが頭の中に起こる。
今日のたった一歩が、はじめての本棚と本棚の間への侵入が、これまでじぶんの内側をときめかせるとは思わなかった。「どれを読もうか、こっちにしようか。でも、こんなには読めないなぁ。」なんて思ったりしながら、まだ中身を読んですらいないのに、何時間も図書館のなかを行ったり来たするのも、また、面白い。そして、どんなに本を読んだって、蔵書を全て読み切るなんてことはできなくて、まだ読みたいものがあったのに、なんて思いながら死んで行く僕を、あなたは静かに遠ざけるでしょう。