Diary
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カテゴリーとしての風景
2017-01-12 12:32:00 UTCある事例の集まりをカテゴリーという。世界というのは、あまりにリッチで豊潤な情報に溢れているから、それを僕たちの頭の胃袋が扱えるサイズに細かくして消化してくれる作用が言語である。カテゴリーわけというのは、言葉によるリッチで膨大な意味世界の分節、粉砕、分類で、情報量をそぎ落とし注目したいことを選択する方法でもある。 つまり長い長い消化器である、言葉というのは、それ自体を通すことによって随分元からリサイズされてしまっているので、言葉にして、喉元を過ぎた時から、もとのそれを完璧に再現することはできない。しかし、同時に言葉にされてしまった世界は、唾液や味覚に対しての性感帯の作用なのか、言葉自体があたらしく意味を持つことになる。カテゴリー分けできるというのは、形とか、性質とか、そういったことから、似たようなところを抜き出して、それらを同じ球体のなかに一時的に保存する作法であり、その球体の所在地が転居すれば、その中の内容はおのずと変わるので、彼らの引越し作業はとめどないものである。 この似ている、というのは、同じである、ということとどのように差を持つのか、ということを考え始めた時に、はじめてそのカテゴリーという球体の外延がわかるような気がする。似ているけれど、どこか違う。似ているというのは、決定的に、それらが違うということを認めた上で、おなじ球体の中に存在させることで。 小学校の時に、ことばの品詞について習った時に、ぼくは固有名詞というものが理解できなかった。世界の全ての事象がそれぞれがオリジナルであるのに、その個性を殺そうとする試みが、それぞれにあえて名前を与えるという行為のように見えたし、たとえば、ぼくという人間をひとりとったて、自分の外延がどこかわからず、明日の僕と昨日の僕が同一人物である保証がない。 高校の生物で、動的平衡について習った時、はじめて、じぶんという存在が、物体なのではなく、川のように移り変わりゆくシステムだと理解した。名前というのは、一時保存のタグ付けみたいなもんだと思って、すこし固有名詞という概念について納得しようとしたけど、やはり、そうやって納得することで、言葉を使うゆえに、いろいろなことから目を背けているような気がした。 だから、この写真では、あえて、具体的な写真をもちいて抽象画を描くことによって「固有の風景」を描こうとしている。同じ時間、同じ場所にぼくとあなたがいたとしても、みている風景というのは、それぞれの歩いてきた人生による味付けがついてしまっているので、具体的な風景を、具体を用いることによって、心象風景として、目を瞑ったときに見えるである風景のもつ夢心地を、その中に。
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忘却と記憶の機械
2016-12-08 08:30:00 UTC「写真ってどうやって撮るんだっけ」おととい考えているじぶんがいた。かまぼこハウスという大学近くの大きなキッチンがあるところで写真を撮りながら、シャッターを押したりする度に、どうやるんだっけ。と、自分の指と目がする行為を見つめたりしていた。けれど、写真に写るのは人の体や、目線ばかりで、ぼくがまさに気に留めている自身の指や目の写真はその中にはない。自分が見ていること、考えていること、というのはこのカメラには写らない(らしい)。カメラの知覚と、ぼくの知覚は別物らしいということがわかり、ぼくは今日もまだ人間なんだな、と文章を打ってみたりしている。いまのこの状況は、機械を通して、じぶんの頭の中のことばをワープロみたいに、残す作業で。Evernoteなんかにぼくはたくさんメモを残したりしているから、やはり、ぼくの一部の記憶は機械のなかにあるんだな、なんて考えてみたりする。 冒頭の行で書いたことに意識を戻してみると、そこには、「じぶんがいた」、というなんとも他人事な表現があって、やはりおとといと今日のじぶんは別物なんだな、ということに妙に納得している。今日ふとであった解離性障害という文字のつながりを思い出しながら、じぶんの持っている時間というのは、一本の糸ではなく、無数の結びがあり、所々に切れ目もあり、それらが床に散らばっているような状態なのかもしれない。と少しばかり手を休めて空想したりする。ー記憶は果たしてどこにあるのだろうか。人の顔と、その人との関わりの歴史と、名前とがすぐに出てこない。ことがある。だから、さきほど空にカメラを向けていた時に、1人がぼくの名前を呼んだんだけど、だれだかわからなかった。というより、誰だかわからないふりをして、その人の名前を間違えてしまうという状況から逃げて、その人に「君は誰」と尋ねた。返って来た答えと、じぶんが想像していた答えとが一緒だったので嬉しかった。じぶんが一度話をしたことのある人の顔と容貌を覚えていた、ということが、とても嬉しい。 「写真」という事象や、そのことについて考えたりする。どうやって撮るんだっけ、というおとといの疑問は、一体どういうことを意味しているのだろう。ボタンを押せば、写真は撮れる。自転車の乗り方を覚えた、みたいなことではなく、もう、ボタンを押せば写真は撮れてしまうのだから、おとといの疑問は、身体的動作の忘却ではない。「なんでこれを私は撮っているのだろう?」という疑問や、意味を求めているようにも思えないし。一つの可能性として、カメラを構えた時と、ファインダーを覗きこんだ時の、そのわずかな間に、人格が入れ替わって、記憶の保存と接続がうまくいかなかったのかもしれない。おとといから2日も経ってしまったので、あの一瞬の感覚を思い出せない。しかし、違和感を覚えた、ということは覚えている。 この写真は、そういった違和感を覚える2時間とか1時間とか、それくらい前にカメラが記録していたものである。時々、じぶんが撮った写真であるのに、まったく覚えていないものが写り込んだりしている。誰か他の人や、もしかしたら猫やツチノコがシャッターを押した可能性を完全には捨てきれないが、おそらく今のじぶんには記憶されていない過去の自分自身が撮ったものなどに出会うと、ひどくうろたえる。ひどく喜ぶ。ひどく褒め称える。ひどく恥ずかしくなる。ということが起こり、忘れる、という行為はじしんへの過去から未来へのサプライズとなり、他者との共同作業を自分1人で完結したみたいで嬉しくなる。 2016.12.08 17:58 at SFCメディアセンター2F