Diary
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思い出の撮影
2017-02-15 13:52:00 UTCスタジオを借りて、大切なものの撮影をしてきた。この三つのものは全てじぶんにとって大切で、特別なものだ。そして、改めて撮影するという記憶を通過させることで、この3つへの意識がより明瞭になったような気がする。 思い出の品、という言い方があるが、思い出の残るような形でてにいれたものだとか、もしくは使う中で思い出とともにあったものは僕にとって思い出の品となる。ということが、今回の撮影で明らかになった。 撮影の前後で、ぼくはこの3つの品の形、大きさ、重さ、質感etcに対して以前よりずっと気を配るようになった。というより、今までは気にしていなかった、といえるほどに、ぼくにとってこの3つは入手経路が思い出に残るような強いものだったので、物自体の特性についてはそれほどまで意識していなかったことが改めてわかった。
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モノ、記憶の貯蔵庫
2017-02-09 14:09:00 UTC時々、大切なものがなくなる。 それはもう様々で。もう触れることが、思い出すことが、叶わない。ものの形や、他者との関係性が、変化・破綻してしまうだとか、それ自体は変わらないのに見え方が変わってしまって、心がもう、そこに敵わない、というような。それはもう様々で、どのようにぼくはこれまで、大切なものをなくしてきたのだろう。それは思い出すたびに、過去の出来事から、現在に引っ張られ、また関係性を新たにする。そしてまた失う。かといって、最初になにかを持っていたか?と聞かれたら、失うという表現は傲慢かもしれない。 記憶というものは、生きる上で全体量を増やすから、それがどんなに大切だろうと、母数が増える関係で割合が小さくなる。だから、それがもし大きい石でないならば、しっかりバリケードをつくって、洪水の為に君は備えなければならない。ふとした拍子で思い出すように、ふとした拍子で、水に濡れ、それはふやけ、境界線が曖昧になる。乾いたとして幾分かは蒸発をしている。 だから、ぼくは瓶が好きだ。透明で中身が見えて、そして、内側と外側が区分されている。ガラスが溶け出して、内側のものの内側に侵入することはないだろう、という信頼が、瓶になにかつめるという発想にぼくをいたらす。かといって、保存することと、使用する状態は平行できないから、使うときは瓶の外側に彼らを出さなければならない。もしかしたらだけど。壊れてしまうかもしれないけれど、外に出さないと、試さないと、使えない。そこには明確のYESとNOがあり、黒は白でないように、瓶には内と外がある。外には鬼がいるかもしれないけれど、井戸の外には、もっと美しいfitした瓶があるかもしれない。 数日前に、大事にしているグラスが割れた。それは円錐の尖っている方を切り取った、富士山の立体を模した形をとっている。富士山グラスと呼ばれていて、ビールを注いだりすると、泡のおかげでそこにはFujiが登場する。大層うすいガラスで、すぐ割れてしまいそうだから、使うときや、洗うときは慎重だった。彼を使って液体を口に流したりすると、飲み終えるまでグラスを眺めたりする。大切に使いたくなるような導線がたくさん敷かれていて、購入した時に桐の箱に入ったりなんかしていたから、引き締まった。「この子を大切にしてね。」と、作者からのメッセージが詰まっているようだった。 それがいざ割れてしまうと、なんだかあっけなかった。同居人が洗い物をしている時にそれは割れてしまった。彼のことを気遣って、「ああ、いいよ。怪我はない?」なんていったしまったけど、ぼくは少し戸惑った。嬉しいことではないけれど、悲しいとも違う。明確なのは、<割るならぼくが割りたかった>ということで。彼を責める気にはまったくならず、ぼくは、お気に入りのグラスが割れてしまったことにどのような態度を持てばいいのか、それを考えていた。「また買えばいいか。」と思ったことも事実だが、そのような態度で、大切なものにむきあうのをよしとしたくなかった。それは、また百貨店などに行けば、買える代物であるけれど、割れたグラスとの記憶とか、それはどうすればいい。 ぼくはモノを手に入れる時に、その購入経路や、その購入の際の体験を大事にしたいとか思ってしまう。長く使うことが前提のものなら、美しくそれを知りたいし、手に入れたい。モノを使用する際に、それを手に入れた時のことをよく思い出す。購入体験も含めて、ぼくはモノだと思うし、新しい記憶の貯蔵庫としてモノは役割をはたす。だから、おなじグラスを買ったとしても、それは形はおなじだけれど、染み込んでいる記憶が違う。かといって、家にある2つの同じグラスそれぞれに、固有の記憶が染みついているわけでもない。ただ、それ一つ、として認識できて、見分けられるような一つのものとの絆は深く特別になる傾向がある。 星の王子様で、「飼い慣らす」という言葉が出てくる。フランス語では <apprivoiser>という単語らしいが、ぼくはフランス語話者でも研究者でもないので、文章の前後の関係でこの「飼い慣らす」と訳された言葉を初めて読んで、ずっとこころに残っている。ぼくにとって、モノを所有するというのは、それを気にかける努力をしていたり、使い続けられるよに努力している感覚にたいして、所有感が生まれる。だから、モノを大事にしない、というのはぼくにとっては所有していないのと同じで、自分で購入したけれどどこにあるかわからないものは所有物ではない。反対に、じぶんの権利が及ぶものではないけれど、気にかけたり、よく思い出すものは、自分の所有物のような感覚がある。大切にするという関係は、関わりを持ちはじめたら、その後努力して互いに馴染ませて行く、ということなのかもしれない。 だから富士山の形をしたグラスが割れた時の「割るならぼくが割りたかった」というのは、その馴染んだグラスとの関係性に対して、最後までじぶんで責任を持ちたかったということなのかもしれない。ぼくは洗う時に、いつも割れないように、丁寧にあらうように心がけていたから、いつかは割れてしまうだろうな、とも思っていた。(これは人間関係においての感覚とも近く、大切にしたい人との関係はぎこちなくなるし、本当に好きな人にはなかなか声がかけられなかったりする。)だから、そのグラスが割れるならそのグラスが割れる瞬間に立ち会いたかった。ただ、グラスというのは割れたからといって、グラスを構成したガラスがそこにしっかりとまだあるのだ。同じ質量を持っているのに、それがどのような形をなし、機能を果たすことができるのか、ということが大事であると目の当たりにした時に、モノとは、ぼくにとって物質ではなく、やはり記憶の貯蔵庫なのだと確信した。