Diary

Posts tagged with essay

  1. hop step stop

    2017-02-24 08:15:00 UTC

    好きな人に好きと言われるのを待つことを。だから、例えば、河原で拾った石だとかを大切に持ち歩いたり、なんでもない果物や無機物をまるで大切かのようにすることで、彼らはぼくに、そして相互に愛着を持つようになってそれはLove and peaceにつながったりしないでしょうか。


  2. モノ、記憶の貯蔵庫

    2017-02-09 14:09:00 UTC

    時々、大切なものがなくなる。 それはもう様々で。もう触れることが、思い出すことが、叶わない。ものの形や、他者との関係性が、変化・破綻してしまうだとか、それ自体は変わらないのに見え方が変わってしまって、心がもう、そこに敵わない、というような。それはもう様々で、どのようにぼくはこれまで、大切なものをなくしてきたのだろう。それは思い出すたびに、過去の出来事から、現在に引っ張られ、また関係性を新たにする。そしてまた失う。かといって、最初になにかを持っていたか?と聞かれたら、失うという表現は傲慢かもしれない。 記憶というものは、生きる上で全体量を増やすから、それがどんなに大切だろうと、母数が増える関係で割合が小さくなる。だから、それがもし大きい石でないならば、しっかりバリケードをつくって、洪水の為に君は備えなければならない。ふとした拍子で思い出すように、ふとした拍子で、水に濡れ、それはふやけ、境界線が曖昧になる。乾いたとして幾分かは蒸発をしている。 だから、ぼくは瓶が好きだ。透明で中身が見えて、そして、内側と外側が区分されている。ガラスが溶け出して、内側のものの内側に侵入することはないだろう、という信頼が、瓶になにかつめるという発想にぼくをいたらす。かといって、保存することと、使用する状態は平行できないから、使うときは瓶の外側に彼らを出さなければならない。もしかしたらだけど。壊れてしまうかもしれないけれど、外に出さないと、試さないと、使えない。そこには明確のYESとNOがあり、黒は白でないように、瓶には内と外がある。外には鬼がいるかもしれないけれど、井戸の外には、もっと美しいfitした瓶があるかもしれない。 数日前に、大事にしているグラスが割れた。それは円錐の尖っている方を切り取った、富士山の立体を模した形をとっている。富士山グラスと呼ばれていて、ビールを注いだりすると、泡のおかげでそこにはFujiが登場する。大層うすいガラスで、すぐ割れてしまいそうだから、使うときや、洗うときは慎重だった。彼を使って液体を口に流したりすると、飲み終えるまでグラスを眺めたりする。大切に使いたくなるような導線がたくさん敷かれていて、購入した時に桐の箱に入ったりなんかしていたから、引き締まった。「この子を大切にしてね。」と、作者からのメッセージが詰まっているようだった。 それがいざ割れてしまうと、なんだかあっけなかった。同居人が洗い物をしている時にそれは割れてしまった。彼のことを気遣って、「ああ、いいよ。怪我はない?」なんていったしまったけど、ぼくは少し戸惑った。嬉しいことではないけれど、悲しいとも違う。明確なのは、<割るならぼくが割りたかった>ということで。彼を責める気にはまったくならず、ぼくは、お気に入りのグラスが割れてしまったことにどのような態度を持てばいいのか、それを考えていた。「また買えばいいか。」と思ったことも事実だが、そのような態度で、大切なものにむきあうのをよしとしたくなかった。それは、また百貨店などに行けば、買える代物であるけれど、割れたグラスとの記憶とか、それはどうすればいい。 ぼくはモノを手に入れる時に、その購入経路や、その購入の際の体験を大事にしたいとか思ってしまう。長く使うことが前提のものなら、美しくそれを知りたいし、手に入れたい。モノを使用する際に、それを手に入れた時のことをよく思い出す。購入体験も含めて、ぼくはモノだと思うし、新しい記憶の貯蔵庫としてモノは役割をはたす。だから、おなじグラスを買ったとしても、それは形はおなじだけれど、染み込んでいる記憶が違う。かといって、家にある2つの同じグラスそれぞれに、固有の記憶が染みついているわけでもない。ただ、それ一つ、として認識できて、見分けられるような一つのものとの絆は深く特別になる傾向がある。 星の王子様で、「飼い慣らす」という言葉が出てくる。フランス語では <apprivoiser>という単語らしいが、ぼくはフランス語話者でも研究者でもないので、文章の前後の関係でこの「飼い慣らす」と訳された言葉を初めて読んで、ずっとこころに残っている。ぼくにとって、モノを所有するというのは、それを気にかける努力をしていたり、使い続けられるよに努力している感覚にたいして、所有感が生まれる。だから、モノを大事にしない、というのはぼくにとっては所有していないのと同じで、自分で購入したけれどどこにあるかわからないものは所有物ではない。反対に、じぶんの権利が及ぶものではないけれど、気にかけたり、よく思い出すものは、自分の所有物のような感覚がある。大切にするという関係は、関わりを持ちはじめたら、その後努力して互いに馴染ませて行く、ということなのかもしれない。 だから富士山の形をしたグラスが割れた時の「割るならぼくが割りたかった」というのは、その馴染んだグラスとの関係性に対して、最後までじぶんで責任を持ちたかったということなのかもしれない。ぼくは洗う時に、いつも割れないように、丁寧にあらうように心がけていたから、いつかは割れてしまうだろうな、とも思っていた。(これは人間関係においての感覚とも近く、大切にしたい人との関係はぎこちなくなるし、本当に好きな人にはなかなか声がかけられなかったりする。)だから、そのグラスが割れるならそのグラスが割れる瞬間に立ち会いたかった。ただ、グラスというのは割れたからといって、グラスを構成したガラスがそこにしっかりとまだあるのだ。同じ質量を持っているのに、それがどのような形をなし、機能を果たすことができるのか、ということが大事であると目の当たりにした時に、モノとは、ぼくにとって物質ではなく、やはり記憶の貯蔵庫なのだと確信した。


  3. 図書館の中の大陸移動

    2017-01-16 04:35:00 UTC

    数メートルの移動が、大陸移動なんかになったりするから、図書館は素敵である。というのも、図書館で本を借りる時なんかは、じぶんの歩いている場所というのは、google mapの赤いピンではなくて、じぶんを挟むように存在している棚によって把握される。本の背表紙に書かれている756とか、318とか、そういった3桁の数字にはそれぞれ意味がある。 例えば、700~740は歴史、550~580は経済の本がまとまって置いてある。きっと図書館を使う人たちには、それぞれがよく行く場所なんかがあって、あそこの本棚がよく使う本棚で、つまりその人は、ドイツ文学に興味がありつつ、レイアウトにも興味があるひと。なんて風に、図書館において、場所と興味というのは、結びついている。そして、たった一つの本棚を超えただけでそこには、中国文学や戯曲なんかが集まったりしていて、数メートルの移動が、大陸移動なんかになったりする。だから、図書館は世界地図であり、縮図であり、各人のテリトリーである。 そして、一歩、あたらしい本棚と本棚の間に足を滑らせると、「ああ、ぼくはいま、新しい国を旅しているんだ。」という旅行者のような気分になれる。たった数歩の移動の中には、ワインの歴史、日本酒の歴史、密造酒の歴史なんかがつまっていて、それらをしかとあじわって進むなら、一歩には何ヶ月もの時間を費やすことになる。そして、その、いままで踏み入れたことのない本棚と本棚との間というのは、風景としては他の本棚との隙間と変わらないはずのに。なぜか、どうしてか、どこも吹きぬける風が違うのだ。 それは背表紙の番号が、色が、大きさが、違う。といった表層的なことだけではないのかもしれない。その本の内側に書かれている内容だとか、その著者だとかの空気が漏れ出していて、その1メートルに満たない本棚と本棚の間の風の通り道のデザインに一役買っているのかもしれない。もっと妄想を広げるなら、それまでその道を通ってきた人たちの足跡が、そこに詰まっているのかもしれない。 こういった原稿用紙の約二枚分の妄想を書くのに、図書館の一歩というのは、十分なほどに濃密な時間が流れているように思う。新しい本棚と本棚の隙間を歩くときに、ぼくは、「ああ、ぼくはこれまでとは違った興味をもち、その世界にまさにこれから触れようとしている。」と、まるで旅行者のように、気持ちを高ぶらせて、歩く。図書館の中を歩く物理的なじぶんの立っている位置というのが、頭のなかにある抽象的な興味の座標として機能をし、まさしく新しい世界に足を踏み入れた、という、偉大なスパークが頭の中に起こる。 今日のたった一歩が、はじめての本棚と本棚の間への侵入が、これまでじぶんの内側をときめかせるとは思わなかった。「どれを読もうか、こっちにしようか。でも、こんなには読めないなぁ。」なんて思ったりしながら、まだ中身を読んですらいないのに、何時間も図書館のなかを行ったり来たするのも、また、面白い。そして、どんなに本を読んだって、蔵書を全て読み切るなんてことはできなくて、まだ読みたいものがあったのに、なんて思いながら死んで行く僕を、あなたは静かに遠ざけるでしょう。


  4. カテゴリーとしての風景

    2017-01-12 12:32:00 UTC

    ある事例の集まりをカテゴリーという。世界というのは、あまりにリッチで豊潤な情報に溢れているから、それを僕たちの頭の胃袋が扱えるサイズに細かくして消化してくれる作用が言語である。カテゴリーわけというのは、言葉によるリッチで膨大な意味世界の分節、粉砕、分類で、情報量をそぎ落とし注目したいことを選択する方法でもある。 つまり長い長い消化器である、言葉というのは、それ自体を通すことによって随分元からリサイズされてしまっているので、言葉にして、喉元を過ぎた時から、もとのそれを完璧に再現することはできない。しかし、同時に言葉にされてしまった世界は、唾液や味覚に対しての性感帯の作用なのか、言葉自体があたらしく意味を持つことになる。カテゴリー分けできるというのは、形とか、性質とか、そういったことから、似たようなところを抜き出して、それらを同じ球体のなかに一時的に保存する作法であり、その球体の所在地が転居すれば、その中の内容はおのずと変わるので、彼らの引越し作業はとめどないものである。 この似ている、というのは、同じである、ということとどのように差を持つのか、ということを考え始めた時に、はじめてそのカテゴリーという球体の外延がわかるような気がする。似ているけれど、どこか違う。似ているというのは、決定的に、それらが違うということを認めた上で、おなじ球体の中に存在させることで。 小学校の時に、ことばの品詞について習った時に、ぼくは固有名詞というものが理解できなかった。世界の全ての事象がそれぞれがオリジナルであるのに、その個性を殺そうとする試みが、それぞれにあえて名前を与えるという行為のように見えたし、たとえば、ぼくという人間をひとりとったて、自分の外延がどこかわからず、明日の僕と昨日の僕が同一人物である保証がない。 高校の生物で、動的平衡について習った時、はじめて、じぶんという存在が、物体なのではなく、川のように移り変わりゆくシステムだと理解した。名前というのは、一時保存のタグ付けみたいなもんだと思って、すこし固有名詞という概念について納得しようとしたけど、やはり、そうやって納得することで、言葉を使うゆえに、いろいろなことから目を背けているような気がした。 だから、この写真では、あえて、具体的な写真をもちいて抽象画を描くことによって「固有の風景」を描こうとしている。同じ時間、同じ場所にぼくとあなたがいたとしても、みている風景というのは、それぞれの歩いてきた人生による味付けがついてしまっているので、具体的な風景を、具体を用いることによって、心象風景として、目を瞑ったときに見えるである風景のもつ夢心地を、その中に。


  5. 忘却と記憶の機械

    2016-12-08 08:30:00 UTC

    「写真ってどうやって撮るんだっけ」おととい考えているじぶんがいた。かまぼこハウスという大学近くの大きなキッチンがあるところで写真を撮りながら、シャッターを押したりする度に、どうやるんだっけ。と、自分の指と目がする行為を見つめたりしていた。けれど、写真に写るのは人の体や、目線ばかりで、ぼくがまさに気に留めている自身の指や目の写真はその中にはない。自分が見ていること、考えていること、というのはこのカメラには写らない(らしい)。カメラの知覚と、ぼくの知覚は別物らしいということがわかり、ぼくは今日もまだ人間なんだな、と文章を打ってみたりしている。いまのこの状況は、機械を通して、じぶんの頭の中のことばをワープロみたいに、残す作業で。Evernoteなんかにぼくはたくさんメモを残したりしているから、やはり、ぼくの一部の記憶は機械のなかにあるんだな、なんて考えてみたりする。 冒頭の行で書いたことに意識を戻してみると、そこには、「じぶんがいた」、というなんとも他人事な表現があって、やはりおとといと今日のじぶんは別物なんだな、ということに妙に納得している。今日ふとであった解離性障害という文字のつながりを思い出しながら、じぶんの持っている時間というのは、一本の糸ではなく、無数の結びがあり、所々に切れ目もあり、それらが床に散らばっているような状態なのかもしれない。と少しばかり手を休めて空想したりする。ー記憶は果たしてどこにあるのだろうか。人の顔と、その人との関わりの歴史と、名前とがすぐに出てこない。ことがある。だから、さきほど空にカメラを向けていた時に、1人がぼくの名前を呼んだんだけど、だれだかわからなかった。というより、誰だかわからないふりをして、その人の名前を間違えてしまうという状況から逃げて、その人に「君は誰」と尋ねた。返って来た答えと、じぶんが想像していた答えとが一緒だったので嬉しかった。じぶんが一度話をしたことのある人の顔と容貌を覚えていた、ということが、とても嬉しい。 「写真」という事象や、そのことについて考えたりする。どうやって撮るんだっけ、というおとといの疑問は、一体どういうことを意味しているのだろう。ボタンを押せば、写真は撮れる。自転車の乗り方を覚えた、みたいなことではなく、もう、ボタンを押せば写真は撮れてしまうのだから、おとといの疑問は、身体的動作の忘却ではない。「なんでこれを私は撮っているのだろう?」という疑問や、意味を求めているようにも思えないし。一つの可能性として、カメラを構えた時と、ファインダーを覗きこんだ時の、そのわずかな間に、人格が入れ替わって、記憶の保存と接続がうまくいかなかったのかもしれない。おとといから2日も経ってしまったので、あの一瞬の感覚を思い出せない。しかし、違和感を覚えた、ということは覚えている。 この写真は、そういった違和感を覚える2時間とか1時間とか、それくらい前にカメラが記録していたものである。時々、じぶんが撮った写真であるのに、まったく覚えていないものが写り込んだりしている。誰か他の人や、もしかしたら猫やツチノコがシャッターを押した可能性を完全には捨てきれないが、おそらく今のじぶんには記憶されていない過去の自分自身が撮ったものなどに出会うと、ひどくうろたえる。ひどく喜ぶ。ひどく褒め称える。ひどく恥ずかしくなる。ということが起こり、忘れる、という行為はじしんへの過去から未来へのサプライズとなり、他者との共同作業を自分1人で完結したみたいで嬉しくなる。 2016.12.08 17:58 at SFCメディアセンター2F


  6. 世界の線化/意味を求める/etc

    2016-12-01 14:59:00 UTC

    そういえば、去年の今頃に。外で食器を使ってピクニックをすることにはまっていて、はじめてinDesignを使って資料を作りました。(一番下にリンクがあります。)なんとなくやった企画なんですが、このときの社会との関わり方への疑問みたいなものは、いまだにしっかりと繋がっていて。 今見ると。このときの自分が、何に本当は興味を持っていた方とかわかる。当時は(今も)、自分の欲求とかinterestは説明しづらくて、ただ、勢いに任せて楽しいからやっていたんだけど、繋がっている。この頃、理由/意味をみつけないと行動ができないけど、それは「意味という病」にかかっている。世界はそもそも意味ではない、という非意味社会という視点をもちつつ、その時の興味にえいやっ!と軸足を置いてみるのは、なかなかgoodなんじゃないかと。 以前、意味とか建前とか、そんなことばかり考えて出場したビジコンがあるんだけど、その時、そのコミニティで言われていたsocial impactとか、social goodとかっていうのは、そういった思いつきの行動を、ふと、20年とか3分とか、経ってから見返すと案外でてくるのではないか。だから、いまの自分が理解してあげられなくても、未来の自分とか、次の世代とか、そういったなかに理解者が現れるかもしれないから、今の自分は、作るのが楽しいだから。そちらにフォーカスをしてみましょう。 この意味を求める、というのは、この頃、病のようにあたまに取り付いていて。コンセプチュアルな実験作品が家にどんどん増えてきて、それを視界に入れるたびに頭をぐちゃぐちゃかき回されるので、視界も、心も、ものは少なく。というのが、あって、白黒写真で、世界を線化して認知するのが今日のハイライトでした。ぼくは、多作のひとになろう!と、ふとmiyagi futoshiをみて、思い立ちました。ちゃお。 https://www.behance.net/gallery/30200217/Guerrilla-Picninc-


  7. <コミュ力の閾値>アーティストの世界への表出

    2016-11-24 18:45:00 UTC

    制作関連で仲良くなる人とかで、笑いとか起きない人が稀にいる。世間一般では、コミュ力が低いというのかもしれない。彼の言っていることも正直わかんないし、議論も、会話が謎すぎて発展しないから、自分の頭の中で考え続けて、それをぽとりぽとり共有するしかない。 でも、彼らが作ってるものがマジでかっこいいから、また会いたい。一緒にいたい。こいつ、何言っているから意味わからんけど、なんか、すげーこと言っているのかもしれない。今は意味わからんけど、後々分かる日が来るのかもしれない。そういう人がたまーーにいる。 だから、そして、めちゃくちゃかっこいいもの作ってるのに、世間に発信する方法がわからないとか、制作ばっかりしているから人との会話ができないひと、マジでわんさかいると思うんですよね。 社会で活躍するためには、ある程度、最低限コミュ力が必要だと思うんですただ、このコミュの閾値を超えられない人が、今の社会では出てこれない。かもしれない。だから、作り続けて続けて続けて。それでやっと、評価される。もしかしたら、評価されないで死ぬかもしれない。無名のゴッホとかピカソがわんさかいると思うんですよ。


  8. はじめまして

    2016-11-23 12:55:00 UTC

    愛着の保存や、記憶の定着というのは私にとって粘着のある言葉で。5分ほど前に話した人の顔さえ覚えられない私は、コミュニケーション失格だな、なんて自暴自棄になる。申し訳ないですが、覚えられない。大学の友人の顔、キャンパスでお会いしても、名前が出てこない。どこで会って、なにを話したか思い出せない。人とのつながりを大事にしたい、なんていうのに、人の顔さえ覚えられません。今日、G1 Collegeでお会いした人たち、顔は知っているけれど、あまりにも他人だった。久しぶり、というより、「どうもはじめまして。以前、あなたによく似たあなたとお会いしたことがあります。」と心の中では挨拶をしていた。ただ、それを伝えたところで、相手は喜ばないだろうから、ああいう社交的なpartyでは、1人廊下にでて踊っていたい。ルームには見たことのある顔がわんさか並べられていて。なんだか骨董通りのお高いブランドを外から眺めて歩いているみたいだった。 少し前に、どこかで、誰かに、はじめましてと挨拶をした。どこの誰かも覚えていない。ただ、ぼくはその人に、3度目のはじめましてを言ってしまったらしい。消えて無くなりたい。もう人と喋るのは今日で最後にしよう。のにそしたら彼/彼女は、「あなたとは会ったことあるよ。でも、私は何度でもはじめましての挨拶をするよ」と口にしたそれはジョークのような会話だったけれど、心底ぼくの記憶は彼/彼女に惚れてしまった。ぼくはこの人のことを何度でも忘れられる。そして、何度でも、時間をかけて思い出したい。思い出したい人ができた。これは素晴らしいことである。顔も名前も思い出せないその誰かに、ぼくは強く惚れている。もう一度彼/彼女に会いたい。そして、初めましてを挨拶をしてみたい。そして、前のことを指摘されたりしながら、少しだけ思い出しながら、恥ずかしくなったりしながら。その凍結された記憶を温め直して、も一度思い出して、その誰かに、とびきりのはじめまして(!)、を伝えたい。 だから、ぼくがあなたとお会いして、名前を思出すことができなかったり、目が泳いだり。なにか気まずそうにしている時は、頭のなかで、必死に記憶を探しています。記憶というものが、苦手です。あなたとの会話がぎこちなくても、つまらそうにしていても。それは僕が勝手にパニックになって、水を欲しているだけです。愛想を尽かしてしまったら申し訳ないですが、今日あって、話をした方々、またお会いしたらはじめましてと挨拶をしても、それはそういうことなんだなぁと、思っていただけたら幸いです。


  9. 2016-11-21 13:59:00 UTC

    今日は思いついたように鎌倉の海にいってみた。とてもたのしっかたな。久しぶりの鎌倉、昔、といっても一年しか経っていないけれど。住んでいた場所の記憶。1人でよく歩いていた御成通り、静かな石の道を歩くと、頭がトリップする。数人との濃い記憶がこの町ではあるから、同時に複数の旅をしているかのようになる。隣にいてくれた人との記憶がおぼろげで、食べたりしたアイスが、今の記憶を補強してくれている。 鎌倉の海が青く照らされていた。Night wave。水は触ると予想に反して、あたたかくて、近づいた時に磯の香りがすごく強くなる。頭の中で夏にトリップした。人の感覚とか記憶に関する授業をとっているけれど。外界にでて、ものに触れるというのは、人と話すというのは、不確実なことばかりで驚かされる。実験のような日々、というと、なんだか大げさだけれど。今日も世界は平和だった。 2016.11.29 23:09


  10. 20161117

    2016-11-16 17:36:00 UTC

    これははじめての文章です。ひとまずどんなふうになるのかを見てみたい。ここからどのように世界が広がっていくのか。 世界と使ったけれど、そんな大げさな言葉ではなく。世界平和なんて言葉を使えば、少しばかり偉大に聞こえるけれどこの小さな心臓の鼓動が聞こえるように耳を澄ました時にそこにはやはり世界と世界の平和が横たわっているように感じるから


1
Using Format