スタジオを借りて、大切なものの撮影をしてきた。この三つのものは全てじぶんにとって大切で、特別なものだ。そして、改めて撮影するという記憶を通過させることで、この3つへの意識がより明瞭になったような気がする。
思い出の品、という言い方があるが、思い出の残るような形でてにいれたものだとか、もしくは使う中で思い出とともにあったものは僕にとって思い出の品となる。ということが、今回の撮影で明らかになった。
撮影の前後で、ぼくはこの3つの品の形、大きさ、重さ、質感etcに対して以前よりずっと気を配るようになった。というより、今までは気にしていなかった、といえるほどに、ぼくにとってこの3つは入手経路が思い出に残るような強いものだったので、物自体の特性についてはそれほどまで意識していなかったことが改めてわかった。
importance
present
photography
Artistの和泉侃さんに新造真人をイメージして、
オーダーメイドフレグランスを調香していただきました。
Tailor made fragrance by Izumi Kan | He made it in the image of me.
Fragrance : Kan Izumi
Photography : Makoto Shinzo
Special thanks : Koichi Ikegami
izumi-kan
fragrance
present
時々、大切なものがなくなる。
それはもう様々で。もう触れることが、思い出すことが、叶わない。ものの形や、他者との関係性が、変化・破綻してしまうだとか、それ自体は変わらないのに見え方が変わってしまって、心がもう、そこに敵わない、というような。それはもう様々で、どのようにぼくはこれまで、大切なものをなくしてきたのだろう。それは思い出すたびに、過去の出来事から、現在に引っ張られ、また関係性を新たにする。そしてまた失う。かといって、最初になにかを持っていたか?と聞かれたら、失うという表現は傲慢かもしれない。
記憶というものは、生きる上で全体量を増やすから、それがどんなに大切だろうと、母数が増える関係で割合が小さくなる。だから、それがもし大きい石でないならば、しっかりバリケードをつくって、洪水の為に君は備えなければならない。ふとした拍子で思い出すように、ふとした拍子で、水に濡れ、それはふやけ、境界線が曖昧になる。乾いたとして幾分かは蒸発をしている。
だから、ぼくは瓶が好きだ。透明で中身が見えて、そして、内側と外側が区分されている。ガラスが溶け出して、内側のものの内側に侵入することはないだろう、という信頼が、瓶になにかつめるという発想にぼくをいたらす。かといって、保存することと、使用する状態は平行できないから、使うときは瓶の外側に彼らを出さなければならない。もしかしたらだけど。壊れてしまうかもしれないけれど、外に出さないと、試さないと、使えない。そこには明確のYESとNOがあり、黒は白でないように、瓶には内と外がある。外には鬼がいるかもしれないけれど、井戸の外には、もっと美しいfitした瓶があるかもしれない。
数日前に、大事にしているグラスが割れた。それは円錐の尖っている方を切り取った、富士山の立体を模した形をとっている。富士山グラスと呼ばれていて、ビールを注いだりすると、泡のおかげでそこにはFujiが登場する。大層うすいガラスで、すぐ割れてしまいそうだから、使うときや、洗うときは慎重だった。彼を使って液体を口に流したりすると、飲み終えるまでグラスを眺めたりする。大切に使いたくなるような導線がたくさん敷かれていて、購入した時に桐の箱に入ったりなんかしていたから、引き締まった。「この子を大切にしてね。」と、作者からのメッセージが詰まっているようだった。
それがいざ割れてしまうと、なんだかあっけなかった。同居人が洗い物をしている時にそれは割れてしまった。彼のことを気遣って、「ああ、いいよ。怪我はない?」なんていったしまったけど、ぼくは少し戸惑った。嬉しいことではないけれど、悲しいとも違う。明確なのは、<割るならぼくが割りたかった>ということで。彼を責める気にはまったくならず、ぼくは、お気に入りのグラスが割れてしまったことにどのような態度を持てばいいのか、それを考えていた。「また買えばいいか。」と思ったことも事実だが、そのような態度で、大切なものにむきあうのをよしとしたくなかった。それは、また百貨店などに行けば、買える代物であるけれど、割れたグラスとの記憶とか、それはどうすればいい。
ぼくはモノを手に入れる時に、その購入経路や、その購入の際の体験を大事にしたいとか思ってしまう。長く使うことが前提のものなら、美しくそれを知りたいし、手に入れたい。モノを使用する際に、それを手に入れた時のことをよく思い出す。購入体験も含めて、ぼくはモノだと思うし、新しい記憶の貯蔵庫としてモノは役割をはたす。だから、おなじグラスを買ったとしても、それは形はおなじだけれど、染み込んでいる記憶が違う。かといって、家にある2つの同じグラスそれぞれに、固有の記憶が染みついているわけでもない。ただ、それ一つ、として認識できて、見分けられるような一つのものとの絆は深く特別になる傾向がある。
星の王子様で、「飼い慣らす」という言葉が出てくる。フランス語では <apprivoiser>という単語らしいが、ぼくはフランス語話者でも研究者でもないので、文章の前後の関係でこの「飼い慣らす」と訳された言葉を初めて読んで、ずっとこころに残っている。ぼくにとって、モノを所有するというのは、それを気にかける努力をしていたり、使い続けられるよに努力している感覚にたいして、所有感が生まれる。だから、モノを大事にしない、というのはぼくにとっては所有していないのと同じで、自分で購入したけれどどこにあるかわからないものは所有物ではない。反対に、じぶんの権利が及ぶものではないけれど、気にかけたり、よく思い出すものは、自分の所有物のような感覚がある。大切にするという関係は、関わりを持ちはじめたら、その後努力して互いに馴染ませて行く、ということなのかもしれない。
だから富士山の形をしたグラスが割れた時の「割るならぼくが割りたかった」というのは、その馴染んだグラスとの関係性に対して、最後までじぶんで責任を持ちたかったということなのかもしれない。ぼくは洗う時に、いつも割れないように、丁寧にあらうように心がけていたから、いつかは割れてしまうだろうな、とも思っていた。(これは人間関係においての感覚とも近く、大切にしたい人との関係はぎこちなくなるし、本当に好きな人にはなかなか声がかけられなかったりする。)だから、そのグラスが割れるならそのグラスが割れる瞬間に立ち会いたかった。ただ、グラスというのは割れたからといって、グラスを構成したガラスがそこにしっかりとまだあるのだ。同じ質量を持っているのに、それがどのような形をなし、機能を果たすことができるのか、ということが大事であると目の当たりにした時に、モノとは、ぼくにとって物質ではなく、やはり記憶の貯蔵庫なのだと確信した。
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memories
essay
数メートルの移動が、大陸移動なんかになったりするから、図書館は素敵である。というのも、図書館で本を借りる時なんかは、じぶんの歩いている場所というのは、google mapの赤いピンではなくて、じぶんを挟むように存在している棚によって把握される。本の背表紙に書かれている756とか、318とか、そういった3桁の数字にはそれぞれ意味がある。
例えば、700~740は歴史、550~580は経済の本がまとまって置いてある。きっと図書館を使う人たちには、それぞれがよく行く場所なんかがあって、あそこの本棚がよく使う本棚で、つまりその人は、ドイツ文学に興味がありつつ、レイアウトにも興味があるひと。なんて風に、図書館において、場所と興味というのは、結びついている。そして、たった一つの本棚を超えただけでそこには、中国文学や戯曲なんかが集まったりしていて、数メートルの移動が、大陸移動なんかになったりする。だから、図書館は世界地図であり、縮図であり、各人のテリトリーである。
そして、一歩、あたらしい本棚と本棚の間に足を滑らせると、「ああ、ぼくはいま、新しい国を旅しているんだ。」という旅行者のような気分になれる。たった数歩の移動の中には、ワインの歴史、日本酒の歴史、密造酒の歴史なんかがつまっていて、それらをしかとあじわって進むなら、一歩には何ヶ月もの時間を費やすことになる。そして、その、いままで踏み入れたことのない本棚と本棚との間というのは、風景としては他の本棚との隙間と変わらないはずのに。なぜか、どうしてか、どこも吹きぬける風が違うのだ。
それは背表紙の番号が、色が、大きさが、違う。といった表層的なことだけではないのかもしれない。その本の内側に書かれている内容だとか、その著者だとかの空気が漏れ出していて、その1メートルに満たない本棚と本棚の間の風の通り道のデザインに一役買っているのかもしれない。もっと妄想を広げるなら、それまでその道を通ってきた人たちの足跡が、そこに詰まっているのかもしれない。
こういった原稿用紙の約二枚分の妄想を書くのに、図書館の一歩というのは、十分なほどに濃密な時間が流れているように思う。新しい本棚と本棚の隙間を歩くときに、ぼくは、「ああ、ぼくはこれまでとは違った興味をもち、その世界にまさにこれから触れようとしている。」と、まるで旅行者のように、気持ちを高ぶらせて、歩く。図書館の中を歩く物理的なじぶんの立っている位置というのが、頭のなかにある抽象的な興味の座標として機能をし、まさしく新しい世界に足を踏み入れた、という、偉大なスパークが頭の中に起こる。
今日のたった一歩が、はじめての本棚と本棚の間への侵入が、これまでじぶんの内側をときめかせるとは思わなかった。「どれを読もうか、こっちにしようか。でも、こんなには読めないなぁ。」なんて思ったりしながら、まだ中身を読んですらいないのに、何時間も図書館のなかを行ったり来たするのも、また、面白い。そして、どんなに本を読んだって、蔵書を全て読み切るなんてことはできなくて、まだ読みたいものがあったのに、なんて思いながら死んで行く僕を、あなたは静かに遠ざけるでしょう。
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book
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ある事例の集まりをカテゴリーという。世界というのは、あまりにリッチで豊潤な情報に溢れているから、それを僕たちの頭の胃袋が扱えるサイズに細かくして消化してくれる作用が言語である。カテゴリーわけというのは、言葉によるリッチで膨大な意味世界の分節、粉砕、分類で、情報量をそぎ落とし注目したいことを選択する方法でもある。
つまり長い長い消化器である、言葉というのは、それ自体を通すことによって随分元からリサイズされてしまっているので、言葉にして、喉元を過ぎた時から、もとのそれを完璧に再現することはできない。しかし、同時に言葉にされてしまった世界は、唾液や味覚に対しての性感帯の作用なのか、言葉自体があたらしく意味を持つことになる。
カテゴリー分けできるというのは、形とか、性質とか、そういったことから、似たようなところを抜き出して、それらを同じ球体のなかに一時的に保存する作法であり、その球体の所在地が転居すれば、その中の内容はおのずと変わるので、彼らの引越し作業はとめどないものである。
この似ている、というのは、同じである、ということとどのように差を持つのか、ということを考え始めた時に、はじめてそのカテゴリーという球体の外延がわかるような気がする。似ているけれど、どこか違う。似ているというのは、決定的に、それらが違うということを認めた上で、おなじ球体の中に存在させることで。
小学校の時に、ことばの品詞について習った時に、ぼくは固有名詞というものが理解できなかった。世界の全ての事象がそれぞれがオリジナルであるのに、その個性を殺そうとする試みが、それぞれにあえて名前を与えるという行為のように見えたし、たとえば、ぼくという人間をひとりとったて、自分の外延がどこかわからず、明日の僕と昨日の僕が同一人物である保証がない。
高校の生物で、動的平衡について習った時、はじめて、じぶんという存在が、物体なのではなく、川のように移り変わりゆくシステムだと理解した。名前というのは、一時保存のタグ付けみたいなもんだと思って、すこし固有名詞という概念について納得しようとしたけど、やはり、そうやって納得することで、言葉を使うゆえに、いろいろなことから目を背けているような気がした。
だから、この写真では、あえて、具体的な写真をもちいて抽象画を描くことによって「固有の風景」を描こうとしている。同じ時間、同じ場所にぼくとあなたがいたとしても、みている風景というのは、それぞれの歩いてきた人生による味付けがついてしまっているので、具体的な風景を、具体を用いることによって、心象風景として、目を瞑ったときに見えるである風景のもつ夢心地を、その中に。
landscape
essay