六月七日、すごく大切にする日の予定でした。

久々に人の写真を撮りたいと”感じ”ています。
文末にぼくはよく、考えた。思った。感じた。という動詞を使うのですが、今回は、考えたでもなく、思ったでもなく、感じたわけです。どうでしょうか、この感覚。いま文章に目を向けているあなたには、伝えることが可能でしょうか。もし伝わっていれば、「それそれ」と口に出してください。
 


語彙の少なさに危機感をおぼえて、時々、確信した。信じた。そう、ぼくは言った。などと、数年前から意識的にブログを書きながら使っています。文章を構成しながら、じぶんの頭の中ではどういったことが起きて、そのそれぞれにどういった判断を下しているのか。それが文末の語に現れているのではないか?そういった仮説を立てるようになりました。
 


現在、大学で履修している授業のひとつに「オーラルヒストリー」というものがあります。この授業を履修しようと”思った”そもそもは、授業名の語感に惹かれたからです。漢字がたくさん並んでいる授業なんかは、あまり履修しようとは”思い”ません。当初、この語感からはすごくsoftなイメージを持っていたのですが、いまはその中にねじれのような、softとは馴染みのなさそうなimageを抱くようになりました。授業が開始して2ヶ月が経過し、すこしづつこの授業名の意味するところを把握し始めました。
 


そして、この授業のおかげかは、把握しかねますが、人の話を聞きながら、もしくは誰かに何かを話したりしながら、”考え”ていることがあります。それは、その発言は、どれほど本当のことを含んでいるのだろうか?どういった意図や、経験から、それぞれの口からその言葉たちは落とされたのだろうか?といったことです。
 


みなさん、事実はどこにあるのだろう?と”考え”たことはありませんか?とある言葉が口から産み落とされたこと自体は事実であるが、その内容が本当に事実かどうかは怪しい。そして、実際に起きたことと、どのように接したかで、その事実は、いとも簡単に様相を変えてしまいます。
 


時々、バーテンダーとして接客をしているのですが、1組のお客さんが来店した際に、どちらかがお手洗いなどで席をはずされた際には、もう1人の方に、その方がいては話すことが出来ない、憚れるようなことを話してもらうようにしています。交流の中で、それは非常に観察力が求められることであり、まだまだ技量が足りていませんが、その時にしか聞くことのできない話が出来たりすると、その場に存在していて良かった、と強く”感じ”ます。
 


冒頭の文章とは、ずいぶん距離が空いてしまいました。こうやって、話が脱線、飛躍することは、すてきなことだと”思って”いました。しかし、これらは、座禅している時に頭に絶え間なく流れてくる雑念のようなものであり、もしかしたらありがたいものではないのかもしれない。と、脱線に対しての格付けを変更したほうが良いのではないか、という小さな警告を出しています。冒頭にタイプすることのできた「文章」に対して、もしも誠実に対応することができたとしたら、どういった文章が続くことが可能だったのでしょうか。
 


この文章を通して、ぼくが何かを伝えたいのだとすれば2つあるかと”思い”ます。それは、久々に人の写真を撮りたくなったということです。そんな、ちょっとした思いつきをここに書いてどうするんだ、などと自分自身が感じています。これはTwitterのつぶやきのようなものでして、よければですが、@pqrsnv をTwitterでfollowしてください。話の中心線が骨折してばかりの文章ですが、もうすこしで終わります。


ぼくはこの文章でなにを言いたいのか、もうひとつあったはずで、それが何かはわかっているけれど、それをここに書いてどうするんだ。そういった思いが溢れてきてしまって。 また、何かの機会で、その2つ目であるとか、ぼくの言語化できていないことなどをなにかしらの形で共有して、それこそCSVのような形で、競争力を持ち、経済的にも力を持った形で、社会貢献(!)なんていう素晴らしい形で、みなさんにぼくの感がていることや、目指している世界、全体善についてお話しする機会をもつことが叶えば、それは至極すてきなことだと思いました。


丁寧に日記を書きたくなる、平凡で、あたたかみのある日だった。

今日で、春学期の折り返しにきた。あと7週間で夏休みをむかえる。高校の同級生は、もう働いているのかな。ぼくはSFCの図書館の外にある丸テーブルで風にあたりながら、この文章を書いている。ちょうど今、花形くんが帰宅するみたいで、手をふった。


30分ほど前には1本の電話をした。1年半前まで一緒に制作したり、夜に長い電話をしたり。その人にしか見せないややこしい文章をせっせと書いていた相手だ。こう書くと、恋人みたいだけど。彼とは付き合えなかったと思う。彼には好きな人がいたから。ぼくも、好きな人がいたし。言葉には落とし込めないけど、そういうことを良しとしたくなる人だ。


そして、彼のことを思い出すと、必ず、思い出す、ある人がいる。その人は、猫みたいな人。気分屋なぼくが、気分屋のメッカと呼ぶその人は、女性。美しかった。今は、ぼくのお得意のFBのフレンド外しの被害者でもあるから、彼女はこの文章を読んでいないと思う。元気に歌ってくれていたら、それがとにかく嬉しい。歌ってくれていたら、なんて、ずいぶん距離感のある言葉選びだと思った。


2016年のことを思い出すと、1月、2月、3月、4月、5月、というのは、ぼくにとってどれも思い出深い月だったな。それぞれの月に、印象深いイベントがあった。1月は彼であり、2月は彼女であり、3月も彼女であった。4月、5月はまた別の出会いがあったが、2015年度と2016年度には、大きな温度差がある。6月からもなにかあったけど、すぐには思い出せない。1月と2月は、濃密だった。冬にも、桜が咲いていてくれていたら、と思うほどに。


はて。どうしてぼくはこうやって文章を載せるのだろう。褒められたい、などあると思うけど、褒められたいが満開の文章は、書いててあまり楽しくない(。)のと、LIKEもあまり来ない。ただ、そんなに媚びずに、じぶんを少しオープンにして、少しばかりの勇気をプレートの端に添えた文章(。)は書いていて、すごく楽しい。そして、LIKEもある程度くる。満足,,,??


そんなこんなをしているうちに、9時半にそろそろなりそうだ。今日は、温泉に行くんだ(!!)と決めている。サウナに入りたい。その後の水風呂に入りたい。なんだかいい日だった。特段、特別なことはなかったけれど、丁寧に日記を書きたくなる、平凡で、あたたかみのある日だった。平和だ。


<部屋> じぶんを回復するコロニー/安全基地

わたしにとって<家>とはなにかについて、考えている。家でひとりで時間をすごすことの効能のひとつとして、じぶんを回復するというのを挙げたい。回復する、というのは、本来あるべき状態に回帰する、というような意味だ。なにかをパワーアップさせたり、筋肉に負荷を与え、筋繊維を増強するといったこととは、違う。距離を取る、と言い直した方がいいかもしれない。


いまわたしが使った、回復というのは面白い言い回しであると思う。この回復について、いま、この文章を読んでくれているアナタに、より筋が通るように説明するならば、それは車の免許証のようなものである。「はて、はてな、、?」さらに詳細を付け加えるなら、誰も、車の運転を生まれながらにして、規制されているものはいない。わたしたちの祖先が、法律だとか、ルールだとかを作って、同時にT型フォードから始まるであろう車を生産し始め、ある時点から、人は免許証を持たねば、罰せられるようになった。かといって、免許証がないからといって、必ずしも罰せられるわけではなく、罰せられにはそれ相応の時間的経過と、大多数の他者によって構成される社会の必要がある。


つまり、ここでわたしが言いたいのは、誰も車の運転について、罰せられらるような義務を持たず、近代の発明のひとつが賞罰であり、わたしたちが生きるこの世紀において、免許証というのは権利の獲得ではなく、権利の奪還、もしくは回復である。そういった意味で、わたしは、家でひとりで過ごすことにたいして、じぶんの回復という効能を見出したい。



わたしは今、平日の毎日大学に通っている。授業が終わると、なにもしたくない時、本を読みたい時、リラックスしたい時、光を眺めていたい時、静かな場所に身を置きたい時、というのがある。やはり、ある。しかし、その時を目指すためには、どんな気持ちでそれを行うのか、ということに目がいく。気持ち、というのは、場所、時間帯、一緒にいる人、などと結びついている。だから、わたしはじぶんの得たい効能を求めて、場所を移動し、人を選択肢、時間の中でそれらを行き来する。感情的・機能的ベネフィットと言い直してもいいかもしれない。


(時間にも、空間にも、どちらにも間という時がはいっているのは示唆的であるといったのは、空手の先生である。間合いをとる、というのは、どういう意味か。早いとは、なにか。そういったことを、大学の体育の時間に考えさせられることがあるとは、誰に言われるまでもなく想像なんてしなかったし、だからこそ、大学の体育の空手はそのような場にもなりえると、ここであえて記述しておきたい。)



間合いというのは、常に変化するもので、それを一定に保つというのは、自己と自己ではない何かのスペースについて注意を払うということ — 感じを、感じ取る、ということかと捉えている。感じる、というのは、心理学だとか、集団社会学のひとつかと捉えられ、わたしが敢えてここでそのように語ってしまうと、tかえて難しいことのように感じられるが、そうではない。否、である。心について、分析するというのは、誰にでも出来る。心理学は、学者のものではなく、難しい言葉に絡め取られているものでもなく、全ての人のものである。そう言ったのは、フランス語の先生でも、ひとりの個人でも、ある、パトリスである。(わたしはこの先生の授業を受けてみたい、という気持ちから、フランス語の授業を大学で受けているが、わたしはいまフランスの文化、観に、傾倒してしまっている。)


このフランス語の授業は、週に100分が4回ある。それらは、別々の曜日、つまり火水木金に散らばっている(先生は曜日ごとに別の方が担当している)。さらに、じぶんが取りたいと思えた他の授業が、月曜に見事に肩を寄せ合っていたことから、わたしは週に5回、平日の全ての曜日においてSFCに通う”はめ”になった。みずから選択したとはいえ、毎日、授業というものがあると、心は、すこし休まらないのことを内包し、わたしは意識的に、休み、文脈を従えれば「ひとりを回復する」時間を欲している。


だから、わたしにとっては、大学の授業が”起こる”その前に、起き、食べ、服を着替えるというのは特別な行為に位置される。起き、食べ、着替えるというのは、大学から要請されていることではない。個人の意思であり、習慣である。しかし、それは文化的な習慣が大きく、あと数ヶ月で23歳となる、成人を迎えているわたしが、意図的に組み入れた習慣ではない。だからこそ、大学という”公”の場所にいく前の、それらの文化的行為を、大学のためではなく、じぶんのためにしている、という行為の自己への帰属意識をもつことが、扉の外へ一歩を踏み出す際の大きな加速となり得る。つまり、これをわかりやすくいうなら、起き、大学に行くまでの間に、私的空間から、公的空間に移行するわずかの間にある間での出来事を、高解像度で確認し、そこでどういったことが起きているのか、まさに確認する必要が発生する。


さもないと、わたしはいつまでたっても、わたしになれない。私的空間だと認知していたところに、その中のいたるところに、よーーく観ると、公的空間が侵食している(それを悪いと言いたいわけではない)。なら、わたしはそれらの行為を、どこ誰へ届けるべきなのか、てんで、わからなくなってしまう(「お手上げだ〜〜〜泣」)。



生涯をかけて、わたしはじぶんの時間を使って、宛名のない手紙ばかり書いている。というのは、どうだろう。どうだろうか。ある人はロマンチックにとらえ、あるひとは厭世的だととらえ、ある人は、そこに他の何かを練り込むだろう。(単語が違うからと言って、本質も異なるかというと、それはそれでまた、別の物語にも繋がるだろう。)


そういった意味をあちらに伝えて、のち雨が降り、晴れたとき、ひとこと言うのなら、なかなか、街の中にはこういった間が少ない。こういった間というのは、ひとりになれる空間的広がりのことである。カフェやバーなどの飲食店では、店員さんがありがたいことにサービスをしてくれる。結果、ひとりになれない。時々、個室スペースや、建築の構造上、お店というパブリックな中でも、プライベートを感じる構造体があったりして、そういうのを見つけると、飛び込みたくなる。(わたしは、秘密基地だとか、小さな穴だとか、隙間、それらが、好きである。)


じぶんで借りている家がある時は、知らぬうちに、そういったことをひとりでする時間があった(ようだ)。本を読む、お茶を淹れる、床にだれる、裸になる、ぼーーーーっと過ごす。そういった時間を、アナタはリラックスと呼ぶのだろうか。いま、その家をなくしたので、絶えず、ひとりになれる間を求めている。海や、山や、川や、そういった「自然」と呼ばれているようなところに積極的に足を運ぶように心が仕向けてくるのがわかる。しかし、家がある時と、ない時では、「自然」と「ひとり」との関係性が変わってしまったようにも思える。


今、海などにいっても、なんとなく、広すぎる気がする。広すぎて、どこまでが、海で、山で、川で、空なのかがわからない。わかりたい、という訳ではない。広さに怖さをおぼえている訳でも、ない。おそらく、家と大きく書かれたその辞書には、パブリックの中にある、じぶんだけがアクセスできる特別な<狭い間>という意味があるのだと思う。広いひろがりのなかにじぶんによるじぶんのための狭い<間>/スペース/部屋/コロニー/居場所を持つことは、じぶんにとって大事なのだ。そんな気がする。


わかりやすい例え、なのかは知らぬが仏。修学旅行の時を思い出す。修学旅行というのは、ある学年全体でどこか遠くに移動して、2日だとか、3日だとか、まとまった時間をまとまった集団として過ごすという、稀有な時間的、空間的なひろがりである。一生に数回しかないのに、ぼくはそれを謳歌できただろうか?という過去への詮索はやめにして、その時、心地よかったのが、集団の中での、こそこそとした、数人の集いである。


大きな集団の中に、小さな集団があり、その集団の中にはそれぞれホーホケキョといった春を告げる人間関係がある。自由行動だとか、食事の時、眠る時、それぞれの時間で、大きな集団は、こまかく分裂し、また集合し、分裂をし、、、、。収縮と拡散とを繰り返す。大きな集団の中にいるはずなのに、ぼくに話をしてくれているA君は、全体に向けてではなく、ぼくに話をしている。A君も、B君も、おなじ、かすみ草という名の部屋に割り振られた人員で、ぼくらは布団に包まりながら、クラスの女性の話をしたり、彼女らに聞かれると恥ずかしいような、猥雑な話題で盛り上がったりしている。


大きな集団からすこし外れたところで、いくつもグループが生まれ、その中で、各自がそれぞれ好きなことをしている。そういった、集団というものは、個々の集まりであり、かといって個々の情報は全体で共有されておらず、個々がそれぞれの関係性において<秘密を保持>し、<秘密のやりとり>を取り交していることが、心地よかった。それは、ひとに言ってはならないような、大層な秘密ではなく、たいていの場合が、他者から、数メートル先だとか、壁を一枚はさんだ向こう側などで行われている。そんな、風に飛ばされ、地面の水面で簡単に地下に溶け込んでいきそうな、ほどけやすいような構造である。



知られたくない、というよりも、知られたところでどうってことのない<秘密のやりとり>が、大きな集団の中に、無数の小さな巣/コロニーを作って、その中で、実は、行われていたのだ(!)。そこには暖かいブランケットが敷かれていた。だから、部屋というのは、わたしにとってそういうものである。知られたところでどうってことのない、言いふらす必要、見せる必要が匙ほどもないことを、ひとりとして、興じてしまっていることがとても楽しいのだ。


心が落ち着く、というのは、じぶんにたいして、じぶんだけの、<どおってことない秘密を積み重ねていく>行為だ。だからひとりの部屋でわたしがなにをしているかというと、わかったと思う。部屋という空間の中で、じぶんがコミュニケーションをとっているのは自分自身だ。かといって、じぶんはひとりにはなれない。体、精神、心、もしかしたらその他、がじぶんを構成し、常に動的平衡のシステムとして、じぶんは変化していく。こうやって文字をタイプする時、一番はじめの読者はわたし自身である。それは、タイプミスなどを含め、わたしは打ちながら、過去の<わたし>がタイプした文字を、いま、まさに見ているのはまさしく<私>だ。それを、頭上の斜め後ろから、眺めるように見ている<ワタシ>がおり、それを認識している<watashi>もいる。


わたしというのは、そうやって現在から妄想を膨らませ、それらを分解していき、立ち現れるものなのなのだろうか。それはどこか無理があるように意識されるし、かといって、常に変化する、では、言葉が、すこし、違う、、、?というように、じぶんや、家について考えることは、わたしの中にある、「家の辞書」「じぶんの辞書」「木の辞書」「服の辞書」を、厚く、厚く。そして表紙を味わい深い色合いに染上げて行く効能を持つのであろう。


まだ知らない/知らなかったわたし。これまでのわたし/これからのわたしについて知る/理解を深める時間。そういった効能が、部屋にはあるのだとしたら、あなたはあなたの内側にいる<watashi>に何を尋ねるでしょう。


ぼくは、わたしは、こうして文章を打つ中で、じぶんがこんな文章を打つのか!と驚きながら打っている。文章を打とう!と思ったその時に、ある程度の文章構成はできているが、変わる。タイピングしながら、彼らは彼らに対してフィードバックを与え、書かれる内容は、増え、削られ、推敲をかさね、いままさに生まれている。時々、わたしのこの手法を、即興だとか、ブリコラージュだとか言う人がいる。「勝手に言え。なんとでも言え。」とつき放ちたくなるが、アナタが、綿密に計画を練る時、その時、その時のストラクチャーの構成に対しての意見は、その場その場では、即興的ではないか。


<ぼく>は、即興的に、文章だとか、言動だとかを繰り出しながら、素材をあつめ、それを一つの形に当てはめようとしている。計画性というのは、微分してその瞬間を取り出せば、わたしが今やっているような、即興の塊であり、その即興性への信頼がないがゆえに、アナタがたは、「計画を持って実行しなさい。」などというが、それは自信のなさの現れである。わたしが選ぶ手法は、即興的であり、ブリコラージュ的であり、本来の的を得ていないのかもしれないが、その中に、未来のタネがあるように考える。


これは、圧倒的な自己肯定である。自信というのは、<自分の未来を信じる>ことだとわたしは捉えていて、そう訳すことをじぶんに対して、赦している。もともとは部屋の話をするはずだったのに、数日前の記憶が引き金となり、こんなことを書いてしまった。しかし、これは、わたしがその時、彼、彼女らに伝えたかったことであり、また、彼らよりも、まだ見ぬ大勢と、いま、この文章を読んでくださっているアナタに、いま一番伝えたいことである。



PS最後に書いて見たいことについて、列挙して見る。

ー4/30に家を解約してから、得た、感想、所感。

ー大家にお金を払う行為と、友人にお土産を持って行く(友人に対してお金を使う)

ー言葉の持つgenderについて。

ー私自身のセクシャリティーについて。

ー「わたし」について撮影された57秒の映像について。

ーものへの愛着について。

ー持ち物を<道具>と呼び始めたことについて。

ーじぶんの家がなくなると、ものが買えなくなる(置き場所の課題)のは、どういうことで、どのように解決したいか。

ーうまい、自己紹介とは。

ー自己紹介に、ことばを尽くさなくなったことについて。

ー白シャツの刺繍について。

ー夢、CSVとしてのアーティスト活動

ーぼくは、もうアーティストではない、、、?

ー書けていない幾つかの手紙について。

ー展示のお知らせ(2017.05.08 - 05.20まで日大江古田キャンパスにて、わたしの裸体を展示させていただいています。ちゃんと告知しないと。)




hop step stop

好きな人に好きと言われるのを待つことを。
だから、例えば、河原で拾った石だとかを大切に持ち歩いたり、
なんでもない果物や無機物をまるで大切かのようにすることで、
彼らはぼくに、そして相互に愛着を持つようになってそれは
Love and peaceにつながったりしないでしょうか。


ぼくは、それを好きだし、ぼくは、作る。

ここ数日で100人近くに営業をしている。1500円の梅干しを売っている。YESはもちろんありがたいが、濃厚なNOがとってもありがたい。中途半端なYESほど、心に傷が残るものはない。どうであろうと、あなたの、白黒が知りたい。

自分が自信を持っているものを売っているので、相手が気に入らないのならば、それを伝えてくれた方が嬉しい。相手が惰性でYESと言わず断れるように、そして本当に欲しい人は買えるように、この値段にし、交渉として、僕は営業している。買いたくない相手に、買って欲しいとは思わない。渡したくない。なぜなら、他に需要があるのだから。なぜなら、それをぼくは気に入っている。

いらないなら、必要ないなら、買わないなら、それを知りたい。意思表示を示してほしい。ぼくは自分のスタンスを崩さない。どこに需要があるかわからない。誰が、どのタイミングで、商品を買うこと、僕にお金を払うことに喜びを覚えるかわからない。という世界の、wonderに対しての取り組みである。

NOと言わないのなら。というのは強引かもしれないが、その程度で、切れる、やわい人間関係なら、なんて、断ることも、意思を伝えることに時間を払わない人間関係なら、マンネリな手抜きな関係は、それは徐々に薄れる。それは、今後、持続しない。一期一会はそれでいい。無理に延命させる気は無い。一期一会はそれでいい。機会があれば、タイミングが合えば、また繋がろう。

日本には1億以上の人がいて、そして、ぼくは今、スペイン語と英語を学んでいる。今後、もっと交流が増える中で、流動的な人間関係ということを知ったならば、22歳のぼくは、決断を先延ばしにされるくらいなら、ぼくは、先に、未来に行く、ということを選択する。一期一会は、そういうことだ。自分を、今に存在させるとは、そういうことだ。中途半端な反応は、手抜きの対応は、お互いからお互いを消す。

営業というのは、お互いの決断を迫る行為である。買われる、買われない、を、ぼくは、買ってくれた、とは、絶対言わない。欲しいから、買って、いらないから、いらない。買ってあげた、それを感じたプレゼントは、ゴミ箱に捨てられる。それなら、あなたに断られて、ぼくは、まだ知らぬ需要を探す。断られることを否定だとは思わない。むしろ、明確なNOはこちらのためになる。そして、欲しい人に届ける。だから、白黒、決断を迫る。

断ることに躊躇する人間関係で、そして、千五百円ごときで壊れる人間関係なら、さっさと壊れてしまえ。失ってしまえ。というより、それはいずれ、破綻する。(これまでの人生で、NOを言えなかったこと、NOの内容を伝えられなかったことを、未だに多く後悔している。)人間はいくらでもいる。いくらでも生まれ、いくらでも死ぬ。そして、もし、誰に求められなくとも、まだ生まれていないその人に、ぼくは、絵を描く。音楽を、つくる。

この時代に、受け入れられなくても、未来の過去の、その。会うことができない人が気にいるのなら。誰からも求められず、必要とされなくても、ぼくは、それを作る。だから、欲しいなら、欲しいと言って。そしたら、ぼくはあなたに売る。いらないなら、いるのなら。ただ、なんと言われようと、ぼくは、それを好きだし、ぼくは、作る。


2017.Feb.03 PM11:49

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