Long bamboo lunch box/長屋弁当.

Long bamboo lunch box/長屋弁当.
This is traditional Japanese lunch style with many friends ,which has started and designed by Akira Takaki (red hair) and his good friends in SFC. As you know, Japanese people have been enjoying their lunch time like this since a long time ago. 

 “I was surprised when I saw the inside of the bamboo for the first time. It was very beautiful. If you have meal time with your friends in this way called Nagaya Bento (Long Bamboo Lunch box), you must communicate with your friends, it is inevitable. I wanted to design and share such a space in our time” Akira said

I was impressed by his idea, and gladly to cooperate with him. Of corse it became good memory for me to be involved in this community, and to take photos. Thank you, Akira.


Produce : Akira TAKAKI/高木昭 (Twitter)
Hungry People : Students of University Keio SFC and Waseda 
Photography : Makoto SHINZO/新造真人(Twitter)


22世紀の街をさきどりする

ぼくの隣でアレコレお喋りしたり、一緒にかんがえてくれる方いませんか?ぼくは大きくかたよったにんげんなので、誰かほかのかたの目や口がいるんです。花もください。愛とあたたかいごはんもほしいです。ぼくはたくさんのおとぎ話と、執拗なこだわりをお見せします!

この頃、友人たちと「近未来の建築」について妄想を膨らませているんです。例えば、重力から解放された「空飛ぶヘリコプターハウス」や、真のメタボリズム建築「成長する家」であるとか。荒川修作が夢見た「死なないための家」が、ほんとうに実現のものになってくるんです。ほんとに。

また、近未来の建築は、カタチの進歩だけじゃなくて、花やにんげんとか、自然のありかたも変えるんです。この頃、パラレルワーカーがふえるわかめちゃんみたいですが、住まい方、移動のコンセプト、家族の単位もどんどん更新されていくべき!!だと周りをウロチョロながめています。

(ぼくじしん、住所はどこ?と聞かれたら困ってしまうようなヤドカリ生活を送っていて。仕事についても、いくつかしています。ある時は暇セレブ、ある時は職人のような顔つきをして暮らしています。また、人付き合いも、ひとりひとりとの関係がオリジナルだから、友だちはいるの?と聞かれたら、返答にこまります。笑)



そして、そのアップデートは<流れ星のごとくまさに今!!>なインスタントラーメンでは、すぐに台所のシンクに流されて、変な香りが立たたせそうです。それはイヤ!なので、笑、ニヤニヤ妄想するだけじゃなく、歴史からも学んだほうがよいのかな?と髭をひとまずたくわえています

そこで今は、例えば、「東京のごちゃごちゃした町並み」がどのように生まれたのか?美術館や図書館といった公共施設は街に何をしているの?について知りたいんです。週末はおめかしして街をさんぽしたり、行ったことのない美術館にいってたりしています(本だって少しは読んでいます)。

それで。こういったこと、ぼくの隣でアレコレお喋りしたり、一緒にかんがえてくれる方いませんか?ぼくは大きくかたよったにんげんなので、誰かほかのかたの目や口がいるんです。花もください。愛とあたたかいごはんもわけわけしてください。ぼくはたくさんのおとぎ話と、執拗なこだわりをお見せします!


about architecture / living object

話はすこしずれるんだけど、去年梅干しの作品作った時の個人テーマは「生命感はなにがもたらすか?/What does “life” mean to me?」だった。ぷらす、2016の春に撮影の仕事で香川を色々回ったんだけど、その時に泊まった宿のオーナーに紹介されてみた一つの建築が、今日までのぼくの進路を大きく変えた。それは、丹下健三さんが建てた香川県庁舎。それに出会って以来、加速度的に建築(/都市設計、巨大彫刻、etc)に愛を示している。

丹下健三さんがDesignされたその建築は、ぼくが「初めてコンセプトを持った建築」として体感した建築になった。それ以前にも、地元東京都三鷹市にある荒川修作の天命反転住宅を見たり、SANAAの金沢21世紀美術館といった、今のぼくだったら今すぐにでも足を運びたい建築に足を運んでいたけど、申し訳ないことに、建築に感動した体験は香川県庁舎が初めてのものだった。

建築というよりは、<about architecture>や、もっと抽象度を高めていうならば<living object>に興味関心がある。living objectというのは、ぼくが思う優れた都市や建造物には、曖昧さ/決まらなさがあり、そこには可能性の一覧表が敷かれている。つまり、一つの意味に回収されない構造には、わたしたち人間をはじめとする生命が持つ未来への無限の道筋とそれが示唆する可能性(意味に回収されないということ)を感じるからだ。今、ぼくの中でこれらへの熱愛がすごい。寝ても覚めてもこのことばかり考えている。音楽も、絵も、写真も、すべてが”建築” に集約され、夢の中も侵食されながら、愛のある日々を送っている。

ちなみに建築の前の興味が向かう先は<music、音、sound、聴こえることのすること>であった。これは未だにぼくの中に流れていて、〔about architecture〕と統合しようとすれば、それはすなわち「人間の知覚、what makes human being?、re-composition」ということになる。ぼくは、いまじぶんが何に興味をもっているのか、だれかに伝えたい衝動/愛が強い。しかし、それがどうにもこうにもまとまらず、長くなりそうなので「読みたい人が読み進めてくれる SNS」に今回投稿することにした。非常に合理的(合理的とは何か?)である。

去年の春、香川県庁舎をみた後に、色々と都市とか建築をみて回ったんだけど、じぶんが興味を特に惹かれる構造には「生命感」が関与しているかもしれない?と仮説を建て始めた。今日、たまたま首なしで生きる鶏(マイク)についての記事を見つけた。ぼくにとってこの首なし鶏は、(申し訳ないけど)living object のように感じられて。元々は生きていた鶏(?)なんだけど、首がなくなってからの鶏は、もともと首がなかった鶏に人為的に生命が与えられたような感覚を抱いている。それでliving objectっていう風に仮に呼んでみた。

食というキーワードでくくるとちょっと大袈裟だけど、食物(しょくもつ)はぼくにとって、食べるという行為の前に、そもそもひとつのモノ(object)として感じられている。食べるという行為は、人間の選択的な行為であって、キャベツも、人参も、食べ物である以前に、ひとつのobjectである。そういう意味。ぷらす、石や山、家具などの無機物(食物や動物などの有機物の対義語として)にもぼくは時々生命性を感じていることも伝えておきたい。とある友人はぼくの感覚を「新造真人は万物にゴーストを感じている」と語ってくれた。

建築は、基本的にはあきらかに無機物であるが、その大きな構造ゆえに、その内側に人間を内包(人間(=文化的identityとしての肉体と、実態のない情報を司るdeviceとしての主体)などの生物が建物を利用)するから、有機物の活動を含んだ巨大な無機物は、無と有の間を往き来する新しい概念として感じられる、とこの頃思っている。青森県立美術館を設計された青木純さんが語っていた「美術館にとってもっともよい空間とは、そこで行われることに対して先回りしない空間」には非常に納得したし、それに答えられる形で今後作品を作っていくと決心した。つまり、無限にコンバージョン(転用)できる空間が優れた空間であり、それをうながす建築は生命体の持つ「決まらなさ」としての素質を秘めているはずだ。

語ってきたように、この頃ぼくの中で「建築」があつい。(建築という単語は、「自然」という単語と同様に、西洋の概念を日本語の中に無理やり移植したものだから、桂離宮とか法隆寺などは「建築」という概念が日本で”発見”される以前に建立されたものなので、以降の「建築」にはあてはまらないとする。)

上の段落の()で示したのは、ぼくが今後語りたいと思うことには非常に重要なことで、現代日本に生きる人々の多くは、いわゆる建築物と、庭といった「(管理された)自然」というものを対極的に扱うけれど。「建築」も「自然」も西洋から輸入された概念なので、輸入以前から存在する日本的(?)な建造物や、周囲の環境について言及していくためには、やはりある程度、ぼくが何を語っていくのかについては焦点を合わせる必要がある。

ぼくは別に建築家になりたいわけではない。ただ、「about architecture」であるとか「生命感」についてはずっと考えていきたいし、27歳までは、地道に地道に、人から認められるような大きな実績をあげなくとも、このまま突き進んでいきたい。ぼくは今、今日あげたような<建築>以外にも、政治、ジェンダー、経済について大きな興味を持っているけれど、例えば「政治的なアーティスト」 と呼ばれるようなことが今後あれば全力で抵抗したい(今後のトレンドになりそうだがそういったものに迎合する気はない)。

ぼくの主な関心は、客観的な欲望の世界を超越して、自己を超えた知覚の領域に侵入することである。政治経済やジェンダーに関係ないーおそらく仏教的な感覚に近いー自己を解放することであり、こういった不偏的知覚世界への関心を変わらず存続していきたい。


The day before Tomorrow

お気に入りは何?」と聞かれ思い浮かべるモノはありますか?図書館の3階のおく?近所のパン屋さん?おばあちゃんがくれたアクセサリー?ぼくにもいくつか「お気に入り」があって。今は図書館の3階にいます。


では、もう1つ質問を。「思い出に残る授業はありますか?」昨日はSFCの授業「社会的組織の経営(ミュージアム)」について書きました。今日は「オーラルヒストリーワークショップ」という清水唯一朗さんの授業から広げて、「無機物へのインタビュー」「お気に入りのモノとの記憶」について書きました。興味がある方は、読んで欲しいです。長いので興味のない方は猫の写真をながめてください。


この授業のシラバスには以下のようなことが書かれています。


“オーラル・ヒストリーは、単に誰かが話す「事実」を獲得するこだけを目的としない。「聞く」もしくは「聴く」ことを通じて聞き手に仮説を与え、今まで見えなかった問題構造を目の前に開き、新たなる論理を得ることを目的としている。なにより、聞く力なくしてオーラル・ヒストリーは行えない。そして、聞く力を鍛えることは、想像する力と書く力を伸ばすことにもつながる。”



ぼくは去年(2016年)の冬からモノの撮影を意識的に始めました。上の写真がそうです。実際のところ時期は不確かですが、意識してモノ撮りを始めました。何故するようになったのか?幾つか思い当たる節があります。


「シェアメイトとのモノの考え方・扱い方の違いに大いに驚いた。」

「スタジオ撮影をする機会が多くなり、暇な時に近くにあるもの撮った。」

「”丁寧な暮らし”をしたいと思い、モノへの愛情を表現しようとした。」


など。しかし、どれが決定的かは覚えていません。だから、こうやって文章に書いて、物体として残らない思考のアーカイブを取ることは重要だと、いままさに、感じています。


授業の話に戻ります。授業を受け、気になったことがありました。


「この授業では、人について聞くことを学んでいる。どのように聞くか、訊ねるか。相手の気持ちになって考える。どこで彼らに聞くか。聞いたものをどのようにするかといったことは話されている。そして語られることのなかったことを聞くことや、普段語る機会をもたない方々にインタビューすることもトピックになるが、そもそも語ることをしない対象に、聞くほうがイケてるんじゃないか?」


そういった難しいことにトライする方が、ぼくはワクワクします。また、「インタビュー」というのは、他者の話を聞く行為ですが、成果物は、インタビュー前後の聞き手自身の変化を記録するドキュメンタリーです。聞く相手を選ぶのもじぶん、質問をするのもじぶん、編集するのもじぶん、公開するのもじぶん。ぜーんぶじぶんです。インタビューと聞くと、話す方が主体のように感じますが、全体の舵取りをするのは聞き手です。「オーラルヒストリーは聞き手と話し手の共同著作物である」と清水さんは授業中に話していましたが、まさにその通りです。そして、更に言えば(ぼくがやりたい)インタビューというのは聞き手/じぶん主導の制作物。だから、ぼくとしては自分と向き合うことを求められるもの。人に聞くより、語ることが本来できないと思われるモノたちにインタビューをするとほうが、じぶん自身と深く向き合えるのではない?ごくごく普通の流れで、無機物を対象としたインタビューを考え始めました。


犬だとか、壁とか、に訊ねることは可能?インタビューは、必ずしも人に聞く必要があるの?


ふっと湧き出たはてなマークに、ぼくは楽しくなってしまいました。壁や、犬についてのことを人に聞いて、それらについて把握するというのはあるんでしょうけど。じぶんでも、「壁にインタビュー??」と疑問はあります。


しかし、「じぶんが尋ねてみたい相手(対象)は何か?」と訊ねられたなら、その対象は間違いなくじぶんのお気に入りであり、じぶんの意思でおこなうインタビューなのだから彼らの話を聞いてみたい。SFCに来た「未来からの留学生」なら、それくらいやらないと。冗談みたいな話ですが、この感覚は本物です。


(AO入試で書いた壮大な夢を思い出し、いまのじぶんがちっぽけにかんじられてきました。すごいぞ、過去のじぶん。超えてくれよな未来のじぶん。)


今日のフランス語の授業に、フランスからの留学生がきて「質問をしてください」という時間がはじまりました。でも、ぼくは彼女にまったく興味を持てなかったので、聞きたいことがありませんでした。これはぼくの想像力やキャラクターの問題も孕みますが「どこに住んでる?」「日本好き?」「好きな食べ物は?」「クジラは食べる?」なんて質問は、どうでもいい。ほんとうにどうでもいい。そういったことを聞きながら、じぶんのききたいことを段々と探って、終いにはハイタッチした!なんて未来もありえましたが、今日はそういう気分にはなれなかった。だから、質問といのは、じぶんの中から湧き上がってくるものを大事にしたい。そういうわけです。


しかも、今回は授業の課題。じぶんで決める課題。やるもやらないもじぶん次第。聞きたくない対象に、聞きたくない質問をして、それについて考えて時間を過ごすなんて……。なんとも馬鹿馬鹿しい!


(でも、そうやってこれまで多くの人と時間を過ごしてきたとも思うから、もっときっぱり言いたい。ぼくは、双方の利益のために、すっぱり、「つまらない」と「面白い」を分けていきたい。凄腕のセールスマンは、そういうことだ。だからこそ、今一緒にいるということは、「ぼくはあなたと一緒にいたいんです。では、あなたはどうですか?双方の利益のためです。一緒にいたくなければご退席お願いします。一緒にいることをあなあが選びたいなら、一緒にいましょう」そうやって、強気なセールストークを噛ませる方が、結果的に多くのじぶんが一緒にいたい人たちから”しっかり”愛されるはずだ。)


だから、ぼくがインタビューをしたい対象は、じぶんが大切にしたい、モノ。実際に大切にしている、モノ。例えば、テニスでボールの壁打ちがあるように、モノにもなにかしらの反応を示せば、じぶんのほうに反応を示してくれるかもしれない。たとえば革というのは、使えば使うほど、手に馴染むようになる。日に当てれば色が落ちるでしょう。形はすこしづつ時間を堆積させ、変化していく。そういった変化にさらされる中で、ぼくたち人間は「革は使えば使うほど味が出るよね」なんてオシャレにいったりするけど、革自身は何を思っているのでしょう。ぼくはその声を聞きたい。


ぼくは無機物の声を聞いてみたいんだ。ぼくにはいくつか愛着のあるものがあって、それを撮影したことことがあります。なにげない日々の中、iPhoneで友人などの写真を撮る人は多いでしょうか?そうやって友人たちを写真におさめるように、愛着があるお気に入りのモノを撮りたい。撮るならしっかり撮りたいと思って、スタジオで財布と指輪を撮ってみました。撮影をする前からお気に入りだったそれらは、すでにたくさんの思い出が十分つまっていました。そして、その撮影をするという行為が新しく1つの思い出になりました。それまでモノの撮影なんてしたことがなかったら、明確に象徴的な思い出になりました。それ以来、その指輪と財布とを以前より、より、大切にするようになりました。


(ヒトリゴト:だから地域の写真館を残す活動をしてみたい。これは人間にとって本当に必要。)


けれど、その撮影から数ヶ月も経たないうちに、ぼくはその財布をなくしてしまいました。撮られた財布の写真ははからずしも、遺影になりました。ものの遺影。いつかは無くなるであろう、様々なかたちで、痛むとか、捨てるとか、入れ替わる、盗まれる、なくす、など。様々な理由でモノととのお別れはどこかの未来に待ち伏せています。


(それは明日かもしれない。来月の11日かもしれません。いつかくるその明日、そしてその明日の前日という、今日。今日は前の日。今日は前の日。今日は前の日かもしれない。


そのモノの中には、モノとじぶんとの思い出が詰まっています。ぼくにとって財布は、大小様々な思い出や記録を詰め込んだ記憶箱としての役割もあります。モノがなくなるのは、そのモノが失われるばかりでなく、じぶんの記憶を失うようなことでもあります。生きた時間が削れてなくなってしまうような儚さがあるんです。それは大げさな表現であり、愛着といった美しいだけのものではなく、執着かもしれません。


しかし、ぼくには「なくなったから次を買おう」とはすぐには思うことが不可能で、代替え不可能なモノがいくつかあります。そのうちのひとつがその財布でした。こうやって書くことによってその思いは変化して生き、語ることによって、モノとの記憶は失われた以降も、育てていくことができます。そういった意味を持ってして、ぼくにとって、愛着や記憶というのは非常に大事なものということが今日、文章を書くことによって再認識させられました。


こうやって語ろうとすることで気づかされましたが、ぼくは知らず知らずのうちに、モノとの間で親密なコミュニケーションを取っていたようです。しかし、モノの声を聞いたことがない(そもそもモノは語るのでしょうか?)。ぼく自身がモノについて語ることは出来るけれど、モノが自らの意思を持って、ぼくに語りかけてほしい。その日を待っています。技術の進歩というのは、そういったSFで描かれる夢物語を実現するための願いのタイムカプセルのように思えます。新しいSFを描くために、一見コミュニケーションの取れなさそうな無機物に対してのインタビューを行いたい。と、すこし、考えています。


オーラルヒストリーの研究会に入っている友人にこれまで語って来たようなことを話したり、なくした財布についての写真をみせると以下のコメントが返って来た(あまりにも田口さんのコメントが粋なので掲載しました!)。


「素敵な財布だね。特に形。
変わってて良い。

 新造真人はモノにゴーストを感じてるんだと思った。それは、付喪神みたいな日本古来の考え方でもありそう。
モノとヒトとの間に記憶があるからなのかな。
モノは語らないというけれど、よく観察してみるとホツレや汚れがあって、時を感じる。言葉という媒体でなくても、人は哀愁を感じることができるよね。

 ある意味批判的な立場で話すとすれば、モノへのインタビューは受け手次第の解釈で物語が生み出されてしまう可能性があるなぁと。
人と人の関係性ではそこが面白いところなんだよ。インタビューをして嘘を口走る人や過大評価している人がいるけど、その裏にはどういう想いがあるのか。そこを考えていくの。同じ人間だからなのかな。とても面白い。
 

モノはどうだろう。彼らは嘘をつくことができるのかな?モノは記憶を補充できる容量がない。だから新造真人の中でしか生きられないのかもしれない。だから、新造真人の中の記憶が全てになる可能性が大いにあるよね。 色々考える余地がありそうだね!!」


これまで語ってきた、なくされた財布の写真を文章の一番下に載せてみました(いまでも大切なものなので、見せたい!自慢したいんです。笑)。


そして、以下のリンク先(Instagram)には、文章があります。ぼくがなくすことを到底想定していないであろう「モノとの思い出」が綴られています。撮影した日、Instagramにアップした日、無くしたことに気がついた日、当時のことはもう覚えていないので、想像することしか出来ません。だからこそ、The day before Tomorrow として今日のぼくが考えていることをしっかりと書き残していきたいし、お気に入りになったモノの写真を撮りたい。そう強く心に刻みます。

https://instagram.com/p/BQmTqUbAtig/







「褒めて」と言えるチャーミングな大人になりたい。

子供は、未来の資産だよね!っていう話を、MADMAXという最恐におばかな映画(ぼくは苦手だった!!)を引き合いに、知人に力説された。その時は笑っちゃったけど、まさにその通りだと思った。「女戦士が、子供をうむ女性たちを、よくわかんない宗教の化け物から救出してーーー」というストーリーは、現代批評が生き生きしていた。よくできた映画なのかな?と思えてきた。


じぶんがちっちゃい頃、まさに「こども」だった頃を思い出す。今日、というかよく思い出すこども時代のいやなことのひとつに、「褒められたかった!」というのがある。もうむか〜〜しむかしだからよく覚えてないけど、ある記憶。小学校の時の算数のテストで満点をとって母親にみせたら「そんなんで満足してないで120点とってきなさいよ」って言われた。この記憶は昔すぎて確かじゃないけど。そんな記憶を持ってしまっている。


ひとことでいいから、「がんばったね〜」って言ってくれれば良かったのに。もしかしたら、その一言で「よし、もっと頑張るぞ!」ってなったかもしれない。でも、それは母親の言った(カモシレナイ)一言にも言えること。要は幼い彼の受け取り方次第とも言える。かといって、まあ、褒めて欲しかったな。笑 と彼は思っただろう。今だったら、まあちょっとは(いやだいぶかも)腹は立つけど、認識をどうにか変えようとする。(今日ひさしぶりに実家に戻って、やっぱり、母と小さなことでもめて、すごく腹が立った。今は冷静になったと思っている。)


ただ、もしじぶんが冷静だったり、ちょっと背伸びをして「理想的な彼」になるなら、ほめれる人になりたい。悪口/皮肉をいったりして、笑ったり、小馬鹿にするコミュニケーションがあって。それはTPOによるけど、ぼくもそれが好きな時があって、仲の打ち解けた人にはすることがおおいけど、それをやりつつも(少しづつ減らしたい?でも、皮肉っていいよな〜〜(とも思う))、褒めれるようになりたい。


だから、もし子供授かった時に、その子をちゃんとほめられるように。いまから、ひとを褒めれる癖をもちたい。もし、このことを明日のぼくが覚えていたら、ぎこちないかもしれないけど、褒めます。下手くそだけど、なんか褒めます。なかなかみつからなかったら「コミュニケーションとれてすごい!」とか、「髪型いい感じだね!」とか、言っちゃいますが、それでも言います。未来の彼がこどもを授かった時のために。


日常の会話の中で、「話をきいてもらいたい」とか「褒めて欲しい」とか「慰めて欲しい」というのは、けっこーある。してくれしてくれ、というのは、冷静になるとちょっとダサいかな。と思うけど、やっぱりそれはあって。褒めて欲しいよ!22才で「ほめて!」っていうのは、ちょっと勇気がいるけど、それを言える友人関係を気づくことだとか、笑、それを許してもらえるような人柄は、とってもチャーミングかもしれない??


今、仲のいい友人とその話をしてみたけど、それは相手も同じだった。ひとことでいいから「がんばったね〜〜」とか「えらいね〜〜」って言えばHAPPY。彼は肯定ペンギンのスタンプをよく使うんだけど、そんなキャラクターを現実生活でしっかり発揮できたら、色々とハッピーになる。問題がころっと解決してしまうこともとても多い気がする。だから、ぼくは未来のぼくのためにあなたを褒めるので、ぼくのことも褒めてね。出会い頭に「今日もチャーミングだね。笑」って、ぎこちなく褒めてくれたら、とっても嬉しいです。笑

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