Hello, I’m here and fine.

部屋の中であたたかい布に埋もれている。風を部屋に招きたくなり窓をあけると、冬の寒さがお前は外を歩けと促してくる。地方、と呼ばれる地域に足を運ぶことが増え、「街中を人が歩いている姿」に何度も励まされた。車という箱ではなく、体を風にむきだしにして外を歩いている姿は「この街には生活をする人がいる」という当たり前を、現実感をともなって伝えてくれる。


日中の渋谷や新宿を歩いているときには、まったく出てこない感情だが、地方と呼ばれる地域を歩いていると特にそう思う。そして、日中以外にも。早朝、落ち葉の掃き掃除をする姿。夕方、家々の窓の向こうにオレンジ色の光を見つけはじめると、この街には生活を営む人々がいるんだな、という当たり前を発見する。だから、じぶんの心が下を向き始めたときは、外を歩くようにしている。街の中を歩くじぶんの存在が、人が通りを歩いているという当たり前のような風景が、名前も知らない誰かを励ますかもしれない。ぼくは、そういった些細なことで喜んだり、励まされたりしてしまうから。


ぼくと同じように、街を人が歩いているだけで笑顔になってしまうような人と出会うためにも、ぼくは街を歩く。じぶんが出会いたい人と出会うためにするのは、ほんのささいなことである。そう、外を歩くということ。そして、外を歩くことで出会いたかった人には、意外かもしれないが、家の中であたたかい布に埋もれていても出会える。インターネットのおかげで、Blogにじぶんの写真や文章をアップするとか。新年を理由に疎遠になっていたひとに急に電話をかける、とか。急に目の前にあらわれて、


Hello, I’m here and fine. How are you doing?



と挨拶をして。そしてその数分後には、インターネットで別の路上にワープできるから、また挨拶をする。そうやって元気をいろんな人からもらったら、寒いけど冬の路上に繰り出す。昨日、新しい足袋をゲットしたのでそれのお披露目もかねて、この寒い日をどんどこ歩き続ける。会おう会おうと言いつつなかなか会えないあなた。いつか本当に会えなくなる前に会おう。今年、どこかの路上で出会いましょう。



memories in the box

こうも似通った箱だと、どの箱にいつのどの写真/記憶が保存されているわからなくなる。箱の中には、写真に残してまで未来の自分に残したいと思われた多くの記憶がある。しかし、時間が経つにつれ、その写真を見ても何を未来のじぶんに届けたかったのかさえわからないという事件が起きる。箱に収められた何枚かは初めてみる風景や、名前の思い出せない人が写っている。今ここにいるじぶんよりも、その箱のほうが詳しかったりする。そして、何が写っているかわからないような白すぎる写真に出会うと、心に吹く風がやむ。写真におさめてまで残してみたかったものが、写真に忘却をまかせたそのおかげで、忘れ去られる。


箱を開けずにそこに記憶を入れたままにしておけば、何を大事にしていたかを見返すことはできない。しかし、同時に、過去のじぶんが何を大事にしていたかのを忘れてしまった、ということにも出会わずにすむ。何がはいっているかわからない<けれど、未来のじぶんに共有したい記憶>箱がぼくにはある。そして、箱は十を超える数になっているみたいだ。しかし、もしかしたら、どこかに一つ箱を置き忘れてしまったのでは、と時々不安になることがある。何を忘れたのかさえも思い出せない。ぼくは大事なものを失うことよりも、なにが大事だったかを忘れることのほうがこわい。けれど、見返すこともこんなんな写真でさえも、たしかにその時間は存在したのだ、とこの箱は同時に証明している。



2018

2018年が始まった。去年は一年間、心が比較的安定していたように感じる。実際はどうだろうか。よくよく振り返ってみると、少しづつ上に向かっている気はする。新しくnoteをとるという習慣を身に付けることもできた。それが一番大きいことかもしれない。大きな心の波がなかったのか、あったのか。思い出せば、誕生日をすごした沖縄であるとか、珠洲でやさしくしてくれた人々。春に遠ずれた西日本の風景であるとか。ところどころに、感情の起伏はある。そういった人々にどうにか、恩返しをしていこう。生きれば生きるほど、出会う世界と人々は増え、もう一度会いたい人は出会う分だけ増えて行くが、もう一度出会える人の相対的な割合はちいさくなるのかもしれない。それをどうにか選択して、決断して、生きて行く。




電車の中に大きな水槽があったら

駅のホームの光が美しい

いざ撮ってみると、全然綺麗じゃない

どこにその美しさはいっちゃったんだろう

とまた、自分の生の目でそれをながめると。やはり美しい

ぼくの技術では、まだまだ見たように世界を写せない

カメラの目と、人間の目、知覚のあり方が全然違うのは知っている

けれど、こうも、美しい、とおもったものを写せないと

ぼくの写真は空っぽだなって思う

いつかのぼくが記憶を引き出すための箱としてくらいなら、

機能するのかもしれないけど

その写真のなかに、生の目でみた美しさをもたせたい

じゃないと空っぽの写真、空っぽの箱

撮れば撮るほど、世界に空っぽの箱が増えて行く

ぼくの頭は、ひどく、いたい

高い音がきんきんする

電車のはしる、
しゅーしゅー すーすー するおと、 

それが今日は、とてもあたまをなやます

そんな日は大抵みる景色も最高になるけど

今日はなんだか、光がとても美しい

電車から、ひかりばかりりながめている

電車のなかの、窓から差し込む、ゆかのひかり

空いた座席にうつるその光は、

こと言うべきにあらずで、 

走る電車の、その車内で、光が走っている

ときおり、踊るように見えるその光をずっと眺めている

もし、電車の中に、大きな水槽があったら、そこに入る光や、出る光、それはどんなに綺麗だろうか、なんて考えて、上田風子をおもいだす

すがるように美しい光を探している

じゃないと、電車がはっする音で、頭がおかしくなる

ぼくは、体がきっとよわい

ただ、ぼくはぼくでしかないから、

なんとか、うまくやり切るしかない


鎌倉海のカーニバル

SFCで現代音楽にのめりこむキッカケをくれた恩師に誘われ、お手伝いをしてきた。「鎌倉 海のアカデミア&海のカーニバル」いま思い出しても、いい時間だった。由比ヶ浜で盆踊りがやっているなんて、初めて知った。音頭をとっている女性の声があまりにもよかった。浜で、生歌で盆踊りをやるなんてどうかしてる。天才だよ。

写真には映されていない風景が、今でも頭のなかで再生される。それは、ぼくが撮影するだけじゃなく、空間に参加(しようと)したからだと思う。もっと言えば、じぶんのいる空間から現実が広がって行くような感覚?この日は、朝の9時から夜は10時過ぎまで由比ヶ浜にいたが、カメラのシャッターを押した時間の総計は、もしタイマーで測ってみたら全体の1/100にも満たさないはず。なのに、「記録されていることは重要である」という思考からあたかも写真に残された風景が全体の9割であるような錯覚によく陥る。

だから、じぶんで撮影したものを見た時に、写真の外側の風景をどれだけ引き出すことが出来るかそれが重要だと考えている。撮影をする時は、何を撮影するか見極めるために一度全体を俯瞰するけれど、その時にこの盆踊りは撮影だけでなく、じぶんも踊りの輪に入ったほうがexcellentだと判断した。そして、よく深いことに踊りながらここを撮影したいなどのイメージが出来上がり、また踊っていることにより、それを撮影してもいいような許可をもらった気になった。踊り手の視点で踊りを撮影することは、非常にexcitingである。足は踊りに合わせ上下左右に動いているが、手は撮影の瞬間を探っている。写真はブレているけれど、そこには臨場感が漂っている。

踊りの輪に入り、近づいてくる龍(龍は常に動いている)や歌い手を撮影した。一息つきたくなり、盆踊りの音が小さく聞こえる海の近くから、黄昏るように撮影した。撮影意図よりも、その時のじぶんが自然体に位置した地点から、ふと見上げるように撮影をしたのはよかった。今後の参考にする。おかげで、撮影された写真からは写っていない間(ま)のことを引き出すことができる。いい写真というのは、キャビネットのように、様々な引き出しに様々がつまっているのだ。

▷以下はnote

撮影も楽しいけど、生の目で見るのはすごく大事だ。機械の目を通して世界を眺め見ることと、肉体の目で世界を観ることは、同じミるでも態度が違う。解釈はいくらでもあるけど、今回に限っては、機械を通したそれは絵を描くことであり、瞳を通したそれは絵に描かれることだ、と言ってみたい。

機械の目で見る、つまりカメラを持つと、ぼくは現実から距離を取り、頭の中でその世界を再構成し始める。色々考えるということ。それは、ぼくにとって絵を描くこと(の一つ)であり、撮影という行為は、光で絵を描き新しい現実を生み出すこと。

瞳で見る、つまり絵に描かれる体験というのは、見惚れることで、見惚れている対象である盆踊りへの没入が増し、じぶんが溶け(エゴが薄くなるので,,,?)その一部となり、他の絵描きが描く対象の範囲になる、ということ。実際ぼくが風景を撮影するときは、見惚れている/空間に参加し構成要素となっている人々は積極的に撮影対象になるが、自分と同じく撮影している人は撮影から排除する傾向がある。撮影者を撮影するのがおもしろいと感じるのは、何かしらの2層構造が生まれるからだ。



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