花鳥風月、そして暗闇

昨晩から体調が優れず、床の一部に体を刷り込ませるようにして時間がすぎる。おそらく夏風邪なのだが、考えてみればずっと前兆はあった。喉が痛い、足首が軋む、などを見逃していた。今は、何かをやろうとすると身体が痛む。だから、何もしないを試みるが、すぐさま体は眠ってしまう。まるで、座禅の時みたいだ、と思った。


つい先日、円覚寺の座禅会に言ってきた。参加者は5人ほどで、確か3セット座禅をやった。終わった後、参加者は禅後には神妙な雰囲気が似合うと思ったからなのか、言葉を選んで、口数すくなに感想をいう。一方で、和尚は弾丸のように言葉を放つ。この差は一体なんなんだ、と考えたら、それは「ぼくたちは”らしさ”に取り憑かれている」と思った。


1セット目はひたすら眠かったが、3セット目になると、僕だって、眠くならずに、ちょっと、できてきたりする。雑念は減るどころか、増えに増え、すごいな!と考え、またそれを横に置いて呼吸に戻る。和尚が言っていた面白い話の一つは、「禅(とかマインドフルネス)を実践する大半の人は、エゴの増大がみられる」ということ。


エゴを手放すために、禅(とかマインドフルネス)を実践するのに、それを実践した人々は「俺は、こういった時間を使ってるからあんたや、前の自分より、高尚な心を持っているんだ」とか、思っちゃうらしい。すげーー、わかる。これを和尚は精神の物質化と呼んでいた。要は、精神も、高級車や、でかい家、わかりやすい美女の類に同列に並べられ、自分を他者に自慢するための一つに数えられてしまった。みたいなことだと思う。


今日、家の中で、床と戯れながら、心地の良い場所を探っていた。暑いからエアコンをつけた室内にいるのだけど、部屋の場所によって温度が全然違う。床の質だとか、そこから見える景色が違う。普段のお気に入りは窓辺だが、今日は、クローゼットの近くが気に入った。体調が悪くなると、緩急に対応する体の差異に敏感になる。体の主導権、じつは脳から離れたところにあって、体それ自体はたくさんに小さく割れていて、中央をもたないその割れ達は、もっと自律的に動きたいのでは?と想像を巡らした。


なぜなら、手と、胃と、足と、頭では、考えてることが違っているように思えた。手はなにかの形を丁寧に彫刻師返されることを求め、胃は休むことを求め、足は走ることを求め、頭はそれらを「支配できるんだ!」とか思ってたけど、頭が頭に「いや、無理なんだよ。脳は、体じゃない。体それ自体にも、意思があるよ」と言っているような気がした。頭が”らしさ”に縛られている限りは、体は何度でも「それ違うって〜」と、呼びかけてくれる。愛想をつかされないうちに、体の声を聞けるように。


花鳥風月、そして暗闇のある生活を送りたい。



180528

今日、気になったものを書き残しておく。

◇象の鼻テラス

そふとくりーむ

青い象がかわいい

ぐるんぱの幼稚園

相州そば

◇永遠のジャンゴ
いまの表現は、苦しい歴史と、人々の功績によって、保証されている
目線、足元、恍惚とした表情に、涙がでそうになった。こんなときに泣けたらな。好きなものをすき、という。心までは服従しないよ。


◇ピンクペッパー

どこで売ってるのかなぁ
糸唐辛子のかわいいのも欲しいよ
鎌倉の燻製オリーブオイル
長谷の三留商店の薬膳ソース
長谷のオリーブオイルを和泉さんに

◇定期券は、とても便利

鵠沼までひとっとび
生活が便利になりそう


同性を愛するということ 勝間和代のカミングアウト

「勝間のセクシュアリティを定義するならば、男性も女性も恋愛の対象になる「バイセクシュアル」や、性別に関係なく人を好きになる「パンセクシュアル」かもしれない。

彼女はそうやって自分を定義づけることにあまり関心がない。人生において、男性を愛したこともあり、今は増原を愛している。愛したのは、その個人であり、性別ではない。」


かき氷空

電車に乗ってどこかへ向かっている。どこで降りて、何を見ようか。調べ物をしようと携帯に目を向けよう。と、ふと顔をみあげると、空にかき氷。ブルーハワイに、苺に、レモンに、オレンジ。乗客はぼくも含めみーーんな、そろいもそろって携帯を見ている。TVじゃないから、みんな違う画面を見ている。「空を見上げなよ、美味しそうだよ」なんて言うことができず、携帯の向こう側のあなたに向かって、話しかけてみる。お腹が空いた。空をみあげて。


18ss淡路島

今朝、ゴスペラーズの北山陽一さんのおしゃべりをする機会があった。彼とそのお友達が言っていたことの一つに以下のような言葉があった。「素敵なことば、というのは、素敵な体験から(のみ)作られるものではない。辛い、きつい、汚い、そういった体験を経たじぶんのフィルターから生み出されるのではないか」。ぼくの意訳、主観が多分に入っているが、ぼくがこのように聞こえた。そして、ここで言われる「ことば」はぼくには「表現」や「絵」「詩」「制作活動」といったものに置き換えて考えることができる。そして、今日のこの言葉を思い返されるのが、淡路島での体験だった。



2週間ほど前。朋を訪ねに淡路島に足を運んだ。国産みの神話で、伊弉諾尊及び伊弉冉尊が日本列島中に一番初めに創造した島である。人生の最高の楽しみの一つは、仲のよい友人とともに酒をくみかわし、歓談することであると、孔子は言ったが、まさにその通りである。遠い遠いと嘆きながらついたこの島には、それでも来た甲斐があったと思わせる、まるで画廊のような友人宅での五日間の滞在。良い滞在、というのは、ただ楽しいだけでなく、愉しくしてみる、ということである。苦い思いをして、伝えることをひたすらに抑えられた感情によって、旅は濃くなった。離島に行き、ただ楽しく笑って帰れると思うなよ、と伊奘諾に言い放たれた。


淡路島では、基本的には、その島に移住したアーティストの友人、和泉 侃さんに案内をしてもらった。彼とは数年前の秋に会い、表現者としても人間としても、味わい深い人である。感覚の蘇生をテーマに表現活動をしており、彼の邸宅には、いたるところに花や香りが添えられていた。生命性に満ち満ちた空間に、将来のじぶんの家への構想が深まる。(というのも七月からぼくは鎌倉に、写真家の友人とギャラリー兼住居を構える予定である)そんな彼に、彼の感性が響いた様々な場所を案内された。そして、感情が濃くなってしまったこの島で、いい風景に出会うと必ずぼくは「be my friend」のじぶんなりの指サインを入れて写真を撮りためた。これは、初夏の展示でみなさまのお目に触れさせようと思う。



そして、彼へのお礼になるのかわからないが。頼まれてもいない、彼の応援をしようと思う。彼が淡路島に移り住んだのは、香りのため。淡路島は香りの産地だそう。そして、彼は現在、Makuakeにてクラウドファウンディングを行なっている。「そえる、香り」と題してお香&お香立てのプロジェクトを立ち上げている。微力ながら、ぼくも支援。友人だからではなく、彼の邸宅でお香を使わせてもらい、生活に必要だと思い、購入した。お香なんて、とおもわず、ひとまず下のリンクから、少しのぞいて見てほしい。


「そえる、香り」https://www.makuake.com/project/kanizumi02/



180114

あ。今日は空が晴れているな、と思えば三分で海まで行けるのはとても幸福なことで、今日のぼくは、実際にそうしました。アメリカ合州国で昼の十二時のときは、だれも知っているように、フランスでは日没です。ですから、一分間で、フランスにいけさえしたら、日の入りがちゃーんと見られるわけです。でも、それにはあいにくフランスが、あんまり遠すぎます。

ですから、見たいと思うたびごとに、今すわっている椅子を夕焼けの空がみられるところに移動させるのは、とても重要なことで、どこに椅子を置いておくかも、ぼくにとって大切です。そして今日は、椅子がすごくいいところに置いてあったので、ぼくは五つのカメラを海まで運ぶことができました。撮影をするにしても、どのカメラを持っているかは大事なことかもしれません。

持っていたのは、iPhone、デジタルカメラ、インスタントカメラ、フィルムカメラ、使い捨てカメラです。このカメラたちを毎日使い、あるいは使わなくても所有し、交わることにより身に付けるものは、その後のぼくのふんいきや言葉遣い、動作にまで大きな影響を与えます。というのも、手にするカメラごとに、ぼくのこころは変化して、撮影するものがあまりにも違いました!

例えば、ひとは壁があるとよっかかる、とか、線があるとそこにちかづきたくなる、とか、ものが人になにかをさせる、というのは知っていたつもりでしたが、写真もまさにそうなのでした。自己表現、といわれてしまう写真でさえも、その撮影は、カメラとぼくとの二人三脚でおこなわれていて、いや、もはや足が何本あるかわかりません。カメラを持ち替えるごとに、身体はまったく新しい地図を手にしたように、歩き回っていました。このことに、今日はとても驚きました。

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