愛着の保存や、記憶の定着というのは私にとって粘着のある言葉で。5分ほど前に話した人の顔さえ覚えられない私は、コミュニケーション失格だな、なんて自暴自棄になる。申し訳ないですが、覚えられない。大学の友人の顔、キャンパスでお会いしても、名前が出てこない。どこで会って、なにを話したか思い出せない。人とのつながりを大事にしたい、なんていうのに、人の顔さえ覚えられません。
今日、G1 Collegeでお会いした人たち、顔は知っているけれど、あまりにも他人だった。久しぶり、というより、「どうもはじめまして。以前、あなたによく似たあなたとお会いしたことがあります。」と心の中では挨拶をしていた。ただ、それを伝えたところで、相手は喜ばないだろうから、ああいう社交的なpartyでは、1人廊下にでて踊っていたい。ルームには見たことのある顔がわんさか並べられていて。なんだか骨董通りのお高いブランドを外から眺めて歩いているみたいだった。
少し前に、どこかで、誰かに、はじめましてと挨拶をした。どこの誰かも覚えていない。ただ、ぼくはその人に、3度目のはじめましてを言ってしまったらしい。消えて無くなりたい。もう人と喋るのは今日で最後にしよう。のにそしたら彼/彼女は、「あなたとは会ったことあるよ。でも、私は何度でもはじめましての挨拶をするよ」と口にした
それはジョークのような会話だったけれど、心底ぼくの記憶は彼/彼女に惚れてしまった。ぼくはこの人のことを何度でも忘れられる。そして、何度でも、時間をかけて思い出したい。思い出したい人ができた。これは素晴らしいことである。顔も名前も思い出せないその誰かに、ぼくは強く惚れている。
もう一度彼/彼女に会いたい。そして、初めましてを挨拶をしてみたい。そして、前のことを指摘されたりしながら、少しだけ思い出しながら、恥ずかしくなったりしながら。その凍結された記憶を温め直して、も一度思い出して、その誰かに、とびきりのはじめまして(!)、を伝えたい。
だから、ぼくがあなたとお会いして、名前を思出すことができなかったり、目が泳いだり。なにか気まずそうにしている時は、頭のなかで、必死に記憶を探しています。記憶というものが、苦手です。あなたとの会話がぎこちなくても、つまらそうにしていても。それは僕が勝手にパニックになって、水を欲しているだけです。愛想を尽かしてしまったら申し訳ないですが、今日あって、話をした方々、またお会いしたらはじめましてと挨拶をしても、それはそういうことなんだなぁと、思っていただけたら幸いです。
memories
essay
昼過ぎからは、撮影だった。被写体として、裸になっていた。背の高い、彼の前で裸体をさらすのは何度目だろう。初めての時は、恥ずかしがるふりをしたりしたけど。今は何でもない。体が疲れていたから。声を大にしたい。
大げさに悲しんだり、喜んだり。多数とのコミュニケーションは苦手だけど、1人の時は、案外大声で笑ったり。1人でうずくまったりしている。人前で、ぼくは裸で。撮影をされるという状況。見られども、まるで、誰もみていないみたいに踊って。自己暗示は目を瞑ることが始まり、あっという間の二時間だった。
時々、体の中に他者の濃い影を感じる。高校の生物で、体内に無数のミトコンドリアが生息している、と習った時に。この体はじぶんだけのものではなく、ひとつの生命環境の星なのだと捉え始めた。服を剥ぎ取り、無防備に人目にさらされるその体は、同時にも、無数の、意識されない他の生命体の生存環境としての星である。揺れ動く星の上の住人たちは、どのようにこの新造真人という星に意見するだろう。
彼が撮影したものを通してみた、それは。
時折とても美しい。だから、何度もかれにぼくは撮られている。
撮影される中で、身体や、裸体の捉え方が変わった。
また、撮影されることに慣れるなかで、普段のじぶんが撮影する側のときの意識も変わる。
これは日記なのだから、これまでにしよう。
書きたいことはいくらでもある。裸体、とか、セクシャリティーとか。
未来のlove songとかね。時間をかけて、おやすみなさい。
2016.11.22 24:13
dairy
nude
model
lovesong
今日は思いついたように鎌倉の海にいってみた。とてもたのしっかたな。久しぶりの鎌倉、昔、といっても一年しか経っていないけれど。住んでいた場所の記憶。1人でよく歩いていた御成通り、静かな石の道を歩くと、頭がトリップする。数人との濃い記憶がこの町ではあるから、同時に複数の旅をしているかのようになる。隣にいてくれた人との記憶がおぼろげで、食べたりしたアイスが、今の記憶を補強してくれている。
鎌倉の海が青く照らされていた。Night wave。水は触ると予想に反して、あたたかくて、近づいた時に磯の香りがすごく強くなる。頭の中で夏にトリップした。人の感覚とか記憶に関する授業をとっているけれど。外界にでて、ものに触れるというのは、人と話すというのは、不確実なことばかりで驚かされる。実験のような日々、というと、なんだか大げさだけれど。今日も世界は平和だった。
2016.11.29 23:09
seascape
kamakura
essay
高校生のとき、昼休みとか、授業中とか。
美術室ちかくに勝手に設けたじぶんのスペースで、キャンバスに、筆とか指とかを使って、色を塗ったり、飛ばしたりしていた。そこはじぶんの城、みたいな部屋で、よく話をしていた同級生からは、「まことの部屋」と呼ばれるスペースがあった。
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通りがかりの名前を知っている大人や、そうじゃない人とかに、
「なにしているの?」って何度も尋ねられた。がんばって答えようとするんだけど、自分が何をしているのか、じぶんでもわからなくて、黙ってしまった。
そういったことが卒業するまで何度も、何度も、あって。しっかり答えなきゃ、100パーセントで応えないと!!と、思って、当時、言葉につまってしまった。とても、怖かった。人に何かを説明するのが怖かった。今、これを書きながら、びっくりした事に、泣き始めている自分がいる。
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「絵を書いているよ」
っていえば会話が成立するとわかっているのに、その質問者たちが、深い考えや、敵意なんてなく、何の気なしに質問している事はわかっていたのに。答える事ができなかった。黙っていたのではなく、適切だと思える言葉が全く出なかった。ふと、飛びかかってきた質問に返すには、あまりにもぼくの答えはごちゃごちゃしているから、、、それを、がんばって、話してみればよかったのかなぁ・・。
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じぶんがやっていることは、絵でもなんでもなく
それ自体だったから、
言葉につまってしまって
ひとに説明するために、
そのときは絵を書いているわけではなくて。
かといって、絵を書きたいとおもったから、絵を書いていたわけでもなく。
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ただ、じぶんがやっている事を、ひとに説明するならば、「絵をかいているという状況に一番ちかい」だけだった、から、それは当時からよくわかっていたけど、じぶんは、絵描きではないし、ひとに説明するならば、「絵をかく」なんだけど、それは、そのように僕の体がそれをしているように見えるだけであって、絵が好きだから絵をかいているわけではなくて。
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そういった事をわかってくれる人、とか、ぼくが納得いくまで、説明をさせてくれる人、といのうが、昔のかれには必要で。。いまは、そういった事があったから、絵を描く事がこわいし。近頃は、写真、というものとか、音楽、というものとか。そういった言葉で表されるような周辺のことに興味関心がある私だけれど。人に、聞かれる事とか、説明する事が、あまりにも、こわくて。こわくて。。。この世から、いなくなりたい。ほんとうに、こわい。
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説明をするために、その行為や状況があるわけではないし。会話を促進するという事が目的なら、「絵を描いている」とか。「カメラマンです」という風に言えばいいのかもしれないけれど。あまりにも、そういうふうに説明した時に、じぶんの心が置き去りにされるから、会話の種になるくらいなら、それらをしまって、ひっそりと生きたい。言葉によって、世界を分節する、というそれが、こんなに怖いなんて。
Self-introduction
high-school-days
painting
これははじめての文章です。
ひとまずどんなふうになるのかを見てみたい。
ここからどのように世界が広がっていくのか。
世界と使ったけれど、そんな大げさな言葉ではなく。
世界平和なんて言葉を使えば、少しばかり偉大に聞こえるけれど
この小さな心臓の鼓動が聞こえるように耳を澄ました時に
そこにはやはり世界と世界の平和が横たわっているように感じるから
essay
world