新造真人の代表作(2021年現在)
September 30, 20212020「心臓コーラ」
作品形態:ワークショップおよびパフォーマンス
現代の資本主義の代表ともいえるコーラ。大量生産大量消費のその甘い液体の原材料である、砂糖、柑橘、スパイス類の背景には先住民や黒人奴隷たちの非人道的な歴史が横たわっている。私はその原材料たちの歴史を調べ、人権問題についての日本各地でワークショップを行うことや、大切な人たちに向けて「オーダーメイド」でコーラのフレーバーを作り、直接味わってもらう出張コーラスタンドなどを行なっている。
2020「水色合理主義」
作品形態:マルチメディアによるインスタレーション
2013年から「水色」という概念に魅了され始め、水色のアイテムを集めたり、行動指針の最上位に水色を据えて行動をするようになった。水色とは不思議な色で、水色の水を私たちはほとんど飲んだことがない。青と白を合わせて薄めたようなあの水色は一般的に、水やガラスなど、透明に感じられるものを絵の中で着色される際に使われる。つまり、水色とは、見えないものを見えるようにするために用いられた魔法の色であるとも捉えられる。では、世界にはどのような水色のものがあるのだろうか、と水色のものを集め始めると、日常が以前までと変わり始めた。人々とには水色と呼ばれ始め、水色のアイテムをいただき、道端で思いがけない水色な出会いが起こり始める。多くの人は、移動の経路選びで安さ、もしくは、速さを選ぶと思うが、今の私はどの経路が一番水色に遭遇することができるかを考慮している。そのようにして集めた、出会った、水色の数々を展示したのが「水色合理主義」である。
2019「Wave of light」
作品形態:写真を掛け軸にした作品
山を簡略的に描くときに、多くは緑色の三角形が描かれる。しかし、富士山を描くときに一番最初に浮かぶのが、水色の三角形である。他の山は緑色で描くのに、どうして富士は水色で描かれるのか。当時の私は富士を望む片瀬江ノ島の海岸近くに住んでおり、早朝海に出向きシャッターを切った。海と空とを分ける水平線を多重露光という撮影方法で描写した。多重露光を三度重ねることにより、画面中央には水色の三角形が浮かび上がる。これは、幼い頃からの記憶であり、私にとっては一番の記号としての富士である。富士山はその大きさ、姿形から、日本の象徴として親しまれて来た。初夢に富士を見ることは縁起が良いとされ、富士に登ることは富士講といった形で羨望の眼差しと村の期待を背負った一大イベントである。葛飾北斎の富嶽三十六景は、そんなめでたい富士への目線を各地から集めた富士集めである。私は三度の異なる時間の、富士を望む海岸線を重ね集め、幻想としての富士山を描いた。床の間に飾られた掛け軸は、茶の湯の世界で、主人と客人との今後の関係性を先導する道しるべ、水先案内人となる。この富士は、部屋に招かれた人を、主人とともに水平線の向こうの祝祭に導く。この掛け軸は、それを鑑賞するものを光の重なるその向こうへと誘う装置としての役割を担う。
この作品は2019、2020年と2年続き、アート×ブロックチェーンによる新時代のアート流通・評価のインフラを構築するスタートバーン主催の「富士山展」に出品した。
2018「 人、そして溝」
作品形態:マルチメディアによる立体作品
福井県若狭和田の漁村に8日間の滞在制作を行い、その風土で感じたことを作品に昇華した。テーマは若狭で感じた「人、そして溝」である。生きる環境によって人格や思い出は形成されるが、若狭で私が一番強く感じたのは、「人間は、個(独)人である」ということ。人間は互いに分離しており、個である。それ以上分けることができないを英語でいうと「Indivudual」である。「人という漢字は、二人の人が支えあうようにできている」とも言われるが、私はむしろ、人と人の間には埋められない溝がある。だからこそ、支え合うことも、分裂するとが可能である。そして、溝があるからこそ、人”々”になり、集まることで、社会や企業が生まれる。そして、そこにはまた「人格」が立ち現れる。人の集合によりまた人ができる。また、平野啓一郎が提唱した「分人主義」という考え方では、人は環境に反応する中で、幾つものが顔を持つことで空間に適応し、彼はそれを分人と名付けた。様々な環境に個人が対応する中で、人間は自分の内側にもいくつもの人格を抱えている。そうした考えから、「人」という文字を分裂、融合しながら、襖の裏面と面面とを接合した面の上に、置いた。材料には近くの若狭湾に流れ着いた流木と、滞在拠点になった宿にあったかつて使われていた襖を使用した。そして、内側の人と襖の側面を水色に塗ったがそれにも理由がある。「水」は、人間と地球表面の7割を担う重要な働きをしながら、分離、融和、境界の象徴でもある。そしてこの分離、融合、境界、というイメージは、この若狭和田で感じた人間へのイメージそのものであり、作品のシンボルとして、水色、そして人を使った。
2016「極限の梅干し」
作品形態:マルチメディアによるインスタレーション
Website : http://kyokugen-no-umeboshi.com/
「生命とは何か」「生命体としてのテクノロジー」と考えた。末、それは水、そしてきまらなさだと考えた。そして、“潤いと渇きのジレンマ”というキーワードのもとこの作品を制作することを決めた。 このキーワードは潤わせたい、また一方では乾かしたい、と日常の中で繰り返されている人為的な事象に着想をおいたものである。人間を構成する7割は水分であり、有機物は水やその潤いにより生命力を維持している。
作品の中で使用した梅干しは、調査によると250年保存できるという群を抜いて腐ることがない存在であり、その塩分濃度の高さから微生物の侵入を許さない一つのPlanet(星)であるということがわかった。この有機物を梅酢とドライアイスによってつくられた過酷な環境のもとに置くことで、潤いと渇きのジレンマを生み出し、進化実験を試み、それを観察した。 梅は、その周りに梅酢のアイスコーティングを形成しながら肥大していく。その塊の大きさ、形は、ドライアイスの大きさや、周囲の環境によ影響を受ける。毎回同じように決して見えない新しい塊が育つ。そして、その塊はドライアイスの蒸発により、冷却の熱を失い、今度は融けはじめ、もとの梅に戻っていく。完全にアイスコーティングが剥がされた時、梅の足元には先ほどまで身体を構成していた梅酢の水たまりが見つかる。その梅は、また別のドライアイスの上にのせることで、また肥大し、また縮小する。この無限のループを続けるも、終わらせるも、私次第である。