「25歳の私の中にいる25人のわたし」

Aは今年の1月8日に生誕25年を迎えた。タイトルにある「25歳の私の中にいる25人のわたし」を祝福する25人にぼくも招待していただき、現在滞在中の奈良葛城から6時間かけて東京に足を運んだ。



「大人になるっていうことは、たくさんの人に頼れるようになることだ」


嬉しそうに話すAの話に、言葉だけでなくその場に集まった人々が、説得力と凄みを与えていた。会場には彼女の小学生の時からの同級生をはじめ、彼女の会社の社長さん、占星術や美容師さん。デザイナーや政治活動家。本当に多様な方々が足を運んでいた。主役のAは黒いドレスに身を包んでいた。ぼくからみた彼女のイメージカラーは真っ赤というものだったから。遅れて着いた会場で、彼女の色を見つけて驚いた。今日会う彼女は、僕の知っている彼女だけでなく、様々な人々の中で編まれ、そしてこれから生まれてくるAなのだ。Aの黒衣装、そして招待者の色は空間に彩りを与える、というより養分の循環として、時間を満たしていた。


Aはその場を「家族」といった言葉で形容しようとしていた。が、彼女が先日両親に与えた試練のようなプレゼントを知ると、この家族という言葉の責任と、その自由さの深淵を覗かざる得ない。AがAの妹と2人で両親に提案したプレゼントは子育てからの解放と各々の自立を象徴するための「離婚」であり、2人の親はそれを受け入れたそうだ。Aの母であるTさんとは数年前からの知り合いであったから、Tさんの「籍、ぬいちゃったのよ!」には驚かなかった。やればできちゃったのよ、畑で大根を1本抜いて来たかのように離婚のことを楽しそうに話すTさん。あなたたちの家族が、辞書のその単語を説明するとしたら、一体どれだけ分厚く、そして美しい文字の並びを与えるのだろう。


その家族の一つの現実に、ぼくも自分の家族の現実を見せつけられた。いつまでも理想の家族像を描き、現実との乖離に頭を悩ませるのか。家族とは呪術のようなものであり、同時に祈りでもある。生命の誕生には死がつきまとう。生まれるということは、その死や別れ、感情や倫理をこえた世界への侵入である。昨夜の会場には僕の嫌悪する人が複数人いたことや、ぼくの高校時代になかよくしていただいた先輩(ママになっていた!)や、顔を忘れていた名前の知っているかつて会った人。初めての人と心の通じ合いを感じたり、また「全くこの人の言葉はわからないな」といった人々もも同席していた。好きという一元性だけでなく、こういった複雑さが家族という一つの宇宙船を強固なものにするのだなと考えさせられた。(好きだけでないものたちを包む、いや包まざる得ないその空間は、細田守さんのサマーウォーズを連想させた)


会場はCRAZY WEDINGがオープンした結婚式場「IWAI 。空間のすべてにコンセプトが貫かれていて、余計なもののない洗練された空間はまるで別荘のよう。結婚式は血縁を新しく紡ぐ呪術的な繋がり、また、それまでの歴史への愛と感謝を伝える儀式だと考えていた。が、結婚などしなくても、一度結婚式をしたあとでも、「結婚」の象徴するところは執り行うことができるし、式場の神秘性に日頃から身を寄せるということは、非常に美しい行いだと思う。婚を循環させることは、生命の流転だけでなく、意味の回転であり、繋がりを産み、断絶させ、そいて新しい箱になっていくことなのだ。


彼女の会のコンセプトが素晴らしいので、最後に引用させていただきたい。


「25歳の私の中にいる25人のわたし」
今回招待しているのは、今までの人生で、私の中にわたしを認識させてくれた、かけがえのない方たちです。信じてくれたり、守ってくれたり、共感してくれたり、希望を見せてくれたり。人は人の中でしか生きられない、みんなの存在に生かされているなと改めて感じます。18日は同じ場所にいる人たちの心を感じる時間の中で、未だ見ぬ私の内面を発見してもらえると嬉しい。そしてそれぞれの出会いから、みんなの人生の喜びと可能性がより一層深く広がるともっともっと嬉しいです。うきうき楽しみに来てください。

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