待ち合わせは、尊い
September 5, 2018<会う>を計画的に実行する際には、必ずと言っていいほど「待ち合わせ」が行われる。例えば、じぶんにとって大切な人と会う(大切、というものがぼくにはまだ分からないので、「特別な人」と言い直したほうがいいのかもしれない)とする。その人に会うと、ぼくは嬉しくなる。ぼくが嬉しそうにしていると、その人も嬉しくなる。それを見るとまた嬉しくなる。そんな人と会う。会う、つまり、わざわざ時間をかけて、わたしに会いに来てくれると言い直せる。
その人はわたしに会いに来る前に、朝、もっと眠っていたい(はずな)のに起きることを選び、顔を洗い、紅茶を淹れ(るのかは知らないが)、着替え、化粧をして、靴を履き、家を出る。そして、自転車に乗り、最寄駅について、改札にSuicaを当て、ゲートを通り抜け、ホームを選び、電車を待ち、到着した扉が開くのを確認し、乗り込み、待ち合わせ場所がある駅まで身体を運び、雑踏を抜け、エスカレーターを登り、待ち合わせ場所である雑居ビルの2階のカフェをみつけ、階段を登り、出会う。
「待ち合わせ」
その一言で済ませることができる動詞を含む日常の大量の行為の積み重ね。例えば「明日の12時37分に前の本屋で待ち合わせね」は、生活世界で、圧倒的な量の行為を相手に要求している。
待ち合わせる。その一言で、わたしは「朝、あなたはわたしのために起きて」と暗に言っていて「朝、あなたはわたしのために呼吸をして」を願い求め「朝、あなたはわたしのために靴紐を結び、お金入った財布や電子カードを持ち忘れず駅の改札を通り抜け、ホームから決して落ちないように電車に乗りこんで」と注文をつけ、ている。
細分化すれば、幾らでも出てくるだろう。待ち合わせまでに行なわれている行為を頭の中で想像し、一つ一つに言葉を与えるよう、試みる。手を合わせるほどの感謝だ。目の前にその人が次に現れたなら、「いただきます」と言ってしまいたくなる(し、ぜひ、ぼくに会う前には桃のゼリーを食べてきてほしい)。歩く、という聞き慣れた動詞でさえ、その内実は神秘に溢れている。のに、それに目を瞑らざる得ないなうな圧倒的な行為を、「明日の12時37分に前の本屋で待ち合わせね」は、請求している。根気さえあれば、それで1日を終えることができるような動作の重なりが、「待ち合わせ」には潜んでいる。