カテゴリーとしての風景

ある事例の集まりをカテゴリーという。世界というのは、あまりにリッチで豊潤な情報に溢れているから、それを僕たちの頭の胃袋が扱えるサイズに細かくして消化してくれる作用が言語である。カテゴリーわけというのは、言葉によるリッチで膨大な意味世界の分節、粉砕、分類で、情報量をそぎ落とし注目したいことを選択する方法でもある。


つまり長い長い消化器である、言葉というのは、それ自体を通すことによって随分元からリサイズされてしまっているので、言葉にして、喉元を過ぎた時から、もとのそれを完璧に再現することはできない。しかし、同時に言葉にされてしまった世界は、唾液や味覚に対しての性感帯の作用なのか、言葉自体があたらしく意味を持つことになる。
カテゴリー分けできるというのは、形とか、性質とか、そういったことから、似たようなところを抜き出して、それらを同じ球体のなかに一時的に保存する作法であり、その球体の所在地が転居すれば、その中の内容はおのずと変わるので、彼らの引越し作業はとめどないものである。


この似ている、というのは、同じである、ということとどのように差を持つのか、ということを考え始めた時に、はじめてそのカテゴリーという球体の外延がわかるような気がする。似ているけれど、どこか違う。似ているというのは、決定的に、それらが違うということを認めた上で、おなじ球体の中に存在させることで。


小学校の時に、ことばの品詞について習った時に、ぼくは固有名詞というものが理解できなかった。世界の全ての事象がそれぞれがオリジナルであるのに、その個性を殺そうとする試みが、それぞれにあえて名前を与えるという行為のように見えたし、たとえば、ぼくという人間をひとりとったて、自分の外延がどこかわからず、明日の僕と昨日の僕が同一人物である保証がない。


高校の生物で、動的平衡について習った時、はじめて、じぶんという存在が、物体なのではなく、川のように移り変わりゆくシステムだと理解した。名前というのは、一時保存のタグ付けみたいなもんだと思って、すこし固有名詞という概念について納得しようとしたけど、やはり、そうやって納得することで、言葉を使うゆえに、いろいろなことから目を背けているような気がした。


だから、この写真では、あえて、具体的な写真をもちいて抽象画を描くことによって「固有の風景」を描こうとしている。同じ時間、同じ場所にぼくとあなたがいたとしても、みている風景というのは、それぞれの歩いてきた人生による味付けがついてしまっているので、具体的な風景を、具体を用いることによって、心象風景として、目を瞑ったときに見えるである風景のもつ夢心地を、その中に。

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