新造真人の代表作(2021年現在)

2020「心臓コーラ」

作品形態:ワークショップおよびパフォーマンス



現代の資本主義の代表ともいえるコーラ。大量生産大量消費のその甘い液体の原材料である、砂糖、柑橘、スパイス類の背景には先住民や黒人奴隷たちの非人道的な歴史が横たわっている。私はその原材料たちの歴史を調べ、人権問題についての日本各地でワークショップを行うことや、大切な人たちに向けて「オーダーメイド」でコーラのフレーバーを作り、直接味わってもらう出張コーラスタンドなどを行なっている。


2020「水色合理主義」

作品形態:マルチメディアによるインスタレーション


2013年から「水色」という概念に魅了され始め、水色のアイテムを集めたり、行動指針の最上位に水色を据えて行動をするようになった。水色とは不思議な色で、水色の水を私たちはほとんど飲んだことがない。青と白を合わせて薄めたようなあの水色は一般的に、水やガラスなど、透明に感じられるものを絵の中で着色される際に使われる。つまり、水色とは、見えないものを見えるようにするために用いられた魔法の色であるとも捉えられる。では、世界にはどのような水色のものがあるのだろうか、と水色のものを集め始めると、日常が以前までと変わり始めた。人々とには水色と呼ばれ始め、水色のアイテムをいただき、道端で思いがけない水色な出会いが起こり始める。多くの人は、移動の経路選びで安さ、もしくは、速さを選ぶと思うが、今の私はどの経路が一番水色に遭遇することができるかを考慮している。そのようにして集めた、出会った、水色の数々を展示したのが「水色合理主義」である。

2019「Wave of light」

作品形態:写真を掛け軸にした作品


山を簡略的に描くときに、多くは緑色の三角形が描かれる。しかし、富士山を描くときに一番最初に浮かぶのが、水色の三角形である。他の山は緑色で描くのに、どうして富士は水色で描かれるのか。当時の私は富士を望む片瀬江ノ島の海岸近くに住んでおり、早朝海に出向きシャッターを切った。海と空とを分ける水平線を多重露光という撮影方法で描写した。多重露光を三度重ねることにより、画面中央には水色の三角形が浮かび上がる。これは、幼い頃からの記憶であり、私にとっては一番の記号としての富士である。富士山はその大きさ、姿形から、日本の象徴として親しまれて来た。初夢に富士を見ることは縁起が良いとされ、富士に登ることは富士講といった形で羨望の眼差しと村の期待を背負った一大イベントである。葛飾北斎の富嶽三十六景は、そんなめでたい富士への目線を各地から集めた富士集めである。私は三度の異なる時間の、富士を望む海岸線を重ね集め、幻想としての富士山を描いた。床の間に飾られた掛け軸は、茶の湯の世界で、主人と客人との今後の関係性を先導する道しるべ、水先案内人となる。この富士は、部屋に招かれた人を、主人とともに水平線の向こうの祝祭に導く。この掛け軸は、それを鑑賞するものを光の重なるその向こうへと誘う装置としての役割を担う。


この作品は2019、2020年と2年続き、アート×ブロックチェーンによる新時代のアート流通・評価のインフラを構築するスタートバーン主催の「富士山展」に出品した。




2018「 人、そして溝」

作品形態:マルチメディアによる立体作品



福井県若狭和田の漁村に8日間の滞在制作を行い、その風土で感じたことを作品に昇華した。テーマは若狭で感じた「人、そして溝」である。生きる環境によって人格や思い出は形成されるが、若狭で私が一番強く感じたのは、「人間は、個(独)人である」ということ。人間は互いに分離しており、個である。それ以上分けることができないを英語でいうと「Indivudual」である。「人という漢字は、二人の人が支えあうようにできている」とも言われるが、私はむしろ、人と人の間には埋められない溝がある。だからこそ、支え合うことも、分裂するとが可能である。そして、溝があるからこそ、人”々”になり、集まることで、社会や企業が生まれる。そして、そこにはまた「人格」が立ち現れる。人の集合によりまた人ができる。また、平野啓一郎が提唱した「分人主義」という考え方では、人は環境に反応する中で、幾つものが顔を持つことで空間に適応し、彼はそれを分人と名付けた。様々な環境に個人が対応する中で、人間は自分の内側にもいくつもの人格を抱えている。そうした考えから、「人」という文字を分裂、融合しながら、襖の裏面と面面とを接合した面の上に、置いた。材料には近くの若狭湾に流れ着いた流木と、滞在拠点になった宿にあったかつて使われていた襖を使用した。そして、内側の人と襖の側面を水色に塗ったがそれにも理由がある。「水」は、人間と地球表面の7割を担う重要な働きをしながら、分離、融和、境界の象徴でもある。そしてこの分離、融合、境界、というイメージは、この若狭和田で感じた人間へのイメージそのものであり、作品のシンボルとして、水色、そして人を使った。



2016「極限の梅干し」

作品形態:マルチメディアによるインスタレーション

Website : http://kyokugen-no-umeboshi.com/


「生命とは何か」「生命体としてのテクノロジー」と考えた。末、それは水、そしてきまらなさだと考えた。そして、“潤いと渇きのジレンマ”というキーワードのもとこの作品を制作することを決めた。 このキーワードは潤わせたい、また一方では乾かしたい、と日常の中で繰り返されている人為的な事象に着想をおいたものである。人間を構成する7割は水分であり、有機物は水やその潤いにより生命力を維持している。


作品の中で使用した梅干しは、調査によると250年保存できるという群を抜いて腐ることがない存在であり、その塩分濃度の高さから微生物の侵入を許さない一つのPlanet(星)であるということがわかった。この有機物を梅酢とドライアイスによってつくられた過酷な環境のもとに置くことで、潤いと渇きのジレンマを生み出し、進化実験を試み、それを観察した。 梅は、その周りに梅酢のアイスコーティングを形成しながら肥大していく。その塊の大きさ、形は、ドライアイスの大きさや、周囲の環境によ影響を受ける。毎回同じように決して見えない新しい塊が育つ。そして、その塊はドライアイスの蒸発により、冷却の熱を失い、今度は融けはじめ、もとの梅に戻っていく。完全にアイスコーティングが剥がされた時、梅の足元には先ほどまで身体を構成していた梅酢の水たまりが見つかる。その梅は、また別のドライアイスの上にのせることで、また肥大し、また縮小する。この無限のループを続けるも、終わらせるも、私次第である。 


「25歳の私の中にいる25人のわたし」

Aは今年の1月8日に生誕25年を迎えた。タイトルにある「25歳の私の中にいる25人のわたし」を祝福する25人にぼくも招待していただき、現在滞在中の奈良葛城から6時間かけて東京に足を運んだ。



「大人になるっていうことは、たくさんの人に頼れるようになることだ」


嬉しそうに話すAの話に、言葉だけでなくその場に集まった人々が、説得力と凄みを与えていた。会場には彼女の小学生の時からの同級生をはじめ、彼女の会社の社長さん、占星術や美容師さん。デザイナーや政治活動家。本当に多様な方々が足を運んでいた。主役のAは黒いドレスに身を包んでいた。ぼくからみた彼女のイメージカラーは真っ赤というものだったから。遅れて着いた会場で、彼女の色を見つけて驚いた。今日会う彼女は、僕の知っている彼女だけでなく、様々な人々の中で編まれ、そしてこれから生まれてくるAなのだ。Aの黒衣装、そして招待者の色は空間に彩りを与える、というより養分の循環として、時間を満たしていた。


Aはその場を「家族」といった言葉で形容しようとしていた。が、彼女が先日両親に与えた試練のようなプレゼントを知ると、この家族という言葉の責任と、その自由さの深淵を覗かざる得ない。AがAの妹と2人で両親に提案したプレゼントは子育てからの解放と各々の自立を象徴するための「離婚」であり、2人の親はそれを受け入れたそうだ。Aの母であるTさんとは数年前からの知り合いであったから、Tさんの「籍、ぬいちゃったのよ!」には驚かなかった。やればできちゃったのよ、畑で大根を1本抜いて来たかのように離婚のことを楽しそうに話すTさん。あなたたちの家族が、辞書のその単語を説明するとしたら、一体どれだけ分厚く、そして美しい文字の並びを与えるのだろう。


その家族の一つの現実に、ぼくも自分の家族の現実を見せつけられた。いつまでも理想の家族像を描き、現実との乖離に頭を悩ませるのか。家族とは呪術のようなものであり、同時に祈りでもある。生命の誕生には死がつきまとう。生まれるということは、その死や別れ、感情や倫理をこえた世界への侵入である。昨夜の会場には僕の嫌悪する人が複数人いたことや、ぼくの高校時代になかよくしていただいた先輩(ママになっていた!)や、顔を忘れていた名前の知っているかつて会った人。初めての人と心の通じ合いを感じたり、また「全くこの人の言葉はわからないな」といった人々もも同席していた。好きという一元性だけでなく、こういった複雑さが家族という一つの宇宙船を強固なものにするのだなと考えさせられた。(好きだけでないものたちを包む、いや包まざる得ないその空間は、細田守さんのサマーウォーズを連想させた)


会場はCRAZY WEDINGがオープンした結婚式場「IWAI 。空間のすべてにコンセプトが貫かれていて、余計なもののない洗練された空間はまるで別荘のよう。結婚式は血縁を新しく紡ぐ呪術的な繋がり、また、それまでの歴史への愛と感謝を伝える儀式だと考えていた。が、結婚などしなくても、一度結婚式をしたあとでも、「結婚」の象徴するところは執り行うことができるし、式場の神秘性に日頃から身を寄せるということは、非常に美しい行いだと思う。婚を循環させることは、生命の流転だけでなく、意味の回転であり、繋がりを産み、断絶させ、そいて新しい箱になっていくことなのだ。


彼女の会のコンセプトが素晴らしいので、最後に引用させていただきたい。


「25歳の私の中にいる25人のわたし」
今回招待しているのは、今までの人生で、私の中にわたしを認識させてくれた、かけがえのない方たちです。信じてくれたり、守ってくれたり、共感してくれたり、希望を見せてくれたり。人は人の中でしか生きられない、みんなの存在に生かされているなと改めて感じます。18日は同じ場所にいる人たちの心を感じる時間の中で、未だ見ぬ私の内面を発見してもらえると嬉しい。そしてそれぞれの出会いから、みんなの人生の喜びと可能性がより一層深く広がるともっともっと嬉しいです。うきうき楽しみに来てください。


新造真人個展「Wave of Light」

新造真人個展「Wave of Light」

2019年1月18日(金)より美術家・新造真人個展『Wave of Light』を開催します。一人でも多くの皆様にご高覧いただきたく、ご案内申し上げます。


会期:2019年 1月18日(金)- 2019年 1月26日(土)

Exhibition period : 18th Jan.(fri.)2019 - 26th Jan.(sat.), 2019

開廊:土 - 木 11:00 - 17:00 金 10:00 - 20:00
Open : sat. - thu. 11:00 - 17:00 fri. 10:00 - 20:00

会場:浄土真宗本願寺 照恩寺
〒187-0041 東京都小平市美園町3丁目23−20
Place:Sho-onji temple
3-23-20, Misonocho, Kodaira-shi, Tokyo, 187-0041



新造真人は光を主な画材として制作を行います。作品の形態は、絵画、写真、音楽、映像、彫刻、居酒屋などと多岐にわたり、それぞれの作品が公開される空間に目を向け、場の力を借りる形で制作活動を進めてきました。

この展覧会は、『富士山展2.0 -ザ・ジャイアントリープ-』の一環として開催され、全ての作品は「startbahn」上で購入することができます。今回、新造は会場となる照恩寺の境内、床の間、仏殿、回廊それぞれに「富士山」をテーマとした新作を展示します。床の間では掛け軸と花の世界を、和室ではお茶目な行き止まりの世界を、と、展示室に見立てられた部屋にはそれぞれのテーマが設けられ空間が構成されています。

皆様のお参りを心よりお待ちしております。


About 富士山展
スタートバーン株式会社が2019年1月5日から26日に開催する『富士山展2.0 -ザ・ジャイアントリープ-』は、新年の活気溢れる1月の「アートの初売り」です。特に今回は、アート×ブロックチェーンの新サービス「startbahn」を使うことで、作品の証明書を実際にブロックチェーンを使用して発行・入手できるほか、様々なクリエーターや会場の特性を活かした展示を行います。

新造真人(Makoto SHINZO)/美術家
Website:https://www.shinzomakoto.com/
作品の購入はこちらから



待ち合わせは、尊い

<会う>を計画的に実行する際には、必ずと言っていいほど「待ち合わせ」が行われる。例えば、じぶんにとって大切な人と会う(大切、というものがぼくにはまだ分からないので、「特別な人」と言い直したほうがいいのかもしれない)とする。その人に会うと、ぼくは嬉しくなる。ぼくが嬉しそうにしていると、その人も嬉しくなる。それを見るとまた嬉しくなる。そんな人と会う。会う、つまり、わざわざ時間をかけて、わたしに会いに来てくれると言い直せる。


その人はわたしに会いに来る前に、朝、もっと眠っていたい(はずな)のに起きることを選び、顔を洗い、紅茶を淹れ(るのかは知らないが)、着替え、化粧をして、靴を履き、家を出る。そして、自転車に乗り、最寄駅について、改札にSuicaを当て、ゲートを通り抜け、ホームを選び、電車を待ち、到着した扉が開くのを確認し、乗り込み、待ち合わせ場所がある駅まで身体を運び、雑踏を抜け、エスカレーターを登り、待ち合わせ場所である雑居ビルの2階のカフェをみつけ、階段を登り、出会う。


「待ち合わせ」

その一言で済ませることができる動詞を含む日常の大量の行為の積み重ね。例えば「明日の12時37分に前の本屋で待ち合わせね」は、生活世界で、圧倒的な量の行為を相手に要求している。

待ち合わせる。その一言で、わたしは「朝、あなたはわたしのために起きて」と暗に言っていて「朝、あなたはわたしのために呼吸をして」を願い求め「朝、あなたはわたしのために靴紐を結び、お金入った財布や電子カードを持ち忘れず駅の改札を通り抜け、ホームから決して落ちないように電車に乗りこんで」と注文をつけ、ている。


細分化すれば、幾らでも出てくるだろう。待ち合わせまでに行なわれている行為を頭の中で想像し、一つ一つに言葉を与えるよう、試みる。手を合わせるほどの感謝だ。目の前にその人が次に現れたなら、「いただきます」と言ってしまいたくなる(し、ぜひ、ぼくに会う前には桃のゼリーを食べてきてほしい)。歩く、という聞き慣れた動詞でさえ、その内実は神秘に溢れている。のに、それに目を瞑らざる得ないなうな圧倒的な行為を、「明日の12時37分に前の本屋で待ち合わせね」は、請求している。根気さえあれば、それで1日を終えることができるような動作の重なりが、「待ち合わせ」には潜んでいる。



眼前の美しさに独り言が止まらない

昨日から、とある薬をやめた。すると、昨晩から、ご飯がおいしくなった。ごはんが本来持っていたのだろう美味しさに、舌先が届くようになったという感じ。この2週間ほど、体の中を、プラスチック片が泳いでいるようだった。そいつも昨日から徐々に薄れて、今日の昼にはほとんど消えている。この2週間の自分は、ほんとに腐っていたようで、まじで無感動だった。いや、正確には喜ぶこともあったのだが、目の前にいる人を悦ばすために、なかばひねり出したような感動だった。だから、喜んだ後に、その真偽を問いたり、まあ、疲れた。そんな2週間だったので、今日は、これまで変わらない1日だったはずなのに、なぜかずっとご機嫌だった。賞味期限の切れた五感を新品に入れ替えたよう清々しさがある。

.そして、今いるこの家とも、あと3週間でお別れである。次はどこに行こうか。もっと真剣に考えていいはずなのに、ぼくは何もしていない。鎌倉に住もうか。それとも、小田原か、神楽坂か。この現実世界では、頭の中にあることは、実際に行動に移す必要があるのだよ。と母は言っていたことを思い出した。




.1:途切れ途切れの光が照らす。映写機の世界..

今日は朝の5時55分に目を覚ました。6時40分過ぎに家を出発し、傘をさしながら、駅までの2分ほどの道を歩いた。雨の音、というのは、雨が傘に当たる音。雨が、コンクリートの地面や、コンクリートに溜まっている水に当たる音は、どんな音の違いがあるのだろうか。コップに入った水の量によって、コップをさすった時の音に違いがあるように、水の深さでも音が変わる筈だ。そんな仮説を立てながらもその仮説検証をすることもなく、わたしは駅の改札を通り過ぎた。.雨の音は、傘に当たる水の音。ということを考え始めたのは、映画音楽作曲家の渡邊崇さんのTEDxKids@Chiyodaでのスピーチを聞いたからである。このTEDxKids@Chiyodaに登壇した、ぼくよりもあとよりも生まれた方々は、みんな化けている。Forbes かたのくん、そーとくん、そーまくん。彼らの道は、見えているのかな。ぼくは、どの道にすすみ、化けよう。.そうそう。雨が、地面にあたりながら、を見ていると、映写機にじぶんの目玉を預けて、外の風景を覗きこんでいるようだった。一秒間に何回、地面の弾けるような一瞬が、目の前で起きているのだろう。ぼくの持っている肉眼では、弾ける瞬間にしか焦点を合わせることが出来ていない。弾ける、と、弾けるの間には一体どんな風景が広がって、そこに、あるのだろう。.映写機、というのは、つまり。写真の連続として、こまぎれのような世界が、目の前に広がっていることが見えた、ということである。世界は止めどない滑らかな連続のように感じていたけれど、そうじゃない。ぼくには、地面に当たって弾ける水の一生が見えなかった。スーパースローカメラなどでみる世界が新しいのは、はやさ(それは遅さも含む)によって隠されていた世界の秘密、美しさ、方法などをぼくたちに見せてくれるだろう。.ぼくたちの目に見える世界は、途切れた世界を、糸で、紡いでいる。ステンレスの包丁で6等分されて津軽のりんごを、糸でつなぎ合わせても、どこかぎこちないように。時間というのも、実は、味わおうとすると、糸のざら、さらら、という声に、舌を通して大脳は気づくかもしれない。それは、舌触り、だけでなく、匂いとして、鼻に届き、舌触りより先に、身体に訴えかけているのかもしれない。

.2:2分が変えるかもしれないifの世界

.片瀬江ノ島から電車に乗り藤沢駅に着いた。今度は、藤沢駅の南口から、湘南鎌倉総合病院行きのバスを待っている。バス停には、濡れないように屋根があり、時刻表を確認する。次のバスが来るのは15分後。しかし、2分前にぼくがバス停に到着していれば、今頃ぼくはバスに乗っていた、という存在しないifの世界を想像した。藤沢駅に小田急線の青色の電車が止まってから、ぼくは1分ほど、車内でノートを取っていた。それをすることなく、すぐにバス停に向かえば、ぼくは電車に乗れたかもしれない。2分早めることで、15分の待ち時間を短縮できたかもしれない。その2分早く動くことができた存在しないifの世界を思う。たった1秒、たった一回の信号の待ち時間。そういったもので、様々なものが加速して、もしくは、いつものじぶんとは違った歯車に新しい現実が載せられ、運ばれ、目の前にやって来るのかもしれない。

.3:行動は急げ..

バスの待ち時間、というのは、ある程度予想できる。また、規則正しい感覚だったりする。が、病院の待ち時間は、残酷だ。先週、病院にいったときは「5時間の待ち時間が予想されます」とのことだった。驚愕だった。午前10時過ぎに行ったので、診察はお昼をすぎることもあり、ぼくは待合室から外に出た。律儀にぼくは5時間後の、おやつの時間にもどってきたが、まだまだ待つということだった。結果的に7時間弱ほどまって、2分ほどの診察を終えた。.ぼくが10時過ぎに病院にきて、待ち時間を知って、すこし悲しそうに待合室に座ると、隣のご婦人と会話が発生した。彼女は7時半に病院に来たらしい。(この病院では、受付は7時半からはじまり、診察は9時から始まる)少し会話をしたところで彼女の名前が呼ばれたらしく、彼女はぼくに少しだけ申し訳なさそうに会釈をしてから診察室へ向かった。ぼくは、彼女に「いってらっしゃい。お大事に」と彼女を見送った。.そういった1週間前のこともあり、今日は7時半に病院に向かった。バス停に2分遅れて着いてしまったが故に、ぼくは7時半ちょうどに病院に到着し、そして受付を7時35分に済ませた。診察は11時過ぎだった。もし、一本前のバスに乗ることができ、7時30分に受付をすることが出来ていれば、何時に診察をすることができたのか。存在しないifの世界を思い、そして、「行動は急げ」と改めて思った。..

4:まずは[WE(わたしたち)]になりたい。そのあとに、また[I(わたし)]と[YOU(あなた)]

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ずっと前になるが、友人と、ぼくの地元である吉祥寺を歩いていた。ぼくは吉祥寺を誰かと歩くときには大抵、勝手に案内人のような気分になってしまい、「ここの通りが!」「ここの街並みが!」「素晴らしいから!」「見て!」という気分になる。そして、その気分全開で歩きながら、様々に右手人差し指で実際に指差したり、心の中で指差しながら「ここがいいんだよ!」と気持ちで歩いている。

しかし、会話というのは盛り上がると、お互いはお互いのことを見ながら話をするようになる。ぼくも、じぶんの方を見てもらいながら話をしてもらうのは嬉しいし、相手のことを見ながら話をするのは、敬意であり、相手がいま何に興味を示し、どのような意図や、希望を持ちながらこの瞬間に存在しているのかわかるから、相手を見る。でも、そうすると、2人は向き合ってしまうが故に、同じ風景を見ることができない。すると、ぼくの見て欲しい風景を相手(you)見てもらうことができない。.書きながら気づいてしまたっが、ぼくは、じぶんの好きなものについて語るとき、相手に、相手なりの視点を持って欲しい。というよりは、まずは、ぼくの見ている世界にすっぽり入り込んで欲しい。のだと考えている。つまり、ぼくは、ぼくという[I]から、相手にじぶんの視点を着せることで[I(わたし)]を[WE(わたしたち)]にしていきたいのだと思う。そして、その後に、相手が相手なりの一人称で、ぼくがおすすめする世界をどのように味わうのかを知りたい。つまりは、まずはWEとして、同じ世界を見るという前提を揃えたい。そして、その上で、別の人間としてあなたと歩き出し、お互いの視点を見せ合いっこしたいのだ。

.5:好きな人の、好きなものを通した世界の愛し方が、知りたい。

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4年前になるが、ぼくには彼女がいた(これは余談だが、その人がぼくにとっての最後の”彼女”になった)。ぼくはその人のことを好きだったので、その人が何が好きなのかを聞いた。いくつかの項目を聞いたり、聞き方を変えながら聞いたりしたが、彼女からの回答の一つはたしか、「好きな食べ物はお好み焼きだよ。」というものだった。今考えれば、わかるのだが、ぼくがその時にその人に聞きたかったのは、「好きな食べ物ーお好み焼き」という図式ではなかったのだと思う。.今でも、人に「何が好きなの?」という質問をしてしまうが、聞きたいのは「きゅうり」とか「わらび餅」とか、そういった回答の裏側にある、その人の「お好み焼きやきゅうりを通した世界への眼差し、や、愛し方」である。だから、聞かれる側としては、めんどくさいのかもしれないが、もっと踏み込んでその人にとっての「お好み焼き」の魅力を聞けばよかったと思っている。その時のぼくが得たのは、参考書に書かれているような「Aさんの好きな食べ物ーお好み焼き」といった、ものであった。もちろん、その時のやり取りでは、その人の答えるまでの間とか、話し方、目線。などから、彼女のことを知れたのだとも、思っている。.ただ、それは観察眼による副次的なもので、当時のぼくの質問の意図としては「あなたが世界をどのようにして愛しているのかを知りたい。お好み焼き、という方法論で、あなたの世界への眼差しが見えるのなら、では、それはお好み焼きのもつどのような世界観、性質、特徴が、あなたを魅了するのか」というのを、じぶんの中を空っぽにして、相手の眼差しを着て、味わってみたかった。

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6:相手のことを知るというのは、つまり。なんだ。

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相手が好きなものを知りたい。というのは、例えばお好み焼きが、好き。ということではなく、どのようしてお好み焼きを楽しんでいるのか知りたい。相手の、好きなものとの、関わりのありかたを知りたい。どのようにお好み焼きを賞味(appriciate)しているのか。どの味や、感触、匂い。色、お店の雰囲気、光。何を良いとしているのか、を知りたい。相手が良いといったものを、一人称的に「新造真人として好きになる(もしくは嫌う)」のではなく、じぶんを空っぽにして、あなたがどのように世界を見ているのか、知りたい。..その人には、「お好み焼き」以外にも「D」とか「M」とか様々に好きなものがあるだろう。4年前、ぼくが彼女にどのように質問をしたのかは覚えていない。が、やり取りの中で、ぼくは彼女の好きなものを、単語として切り取るなら軽く10はあげれるようになっていたと思う。しかし、例えばクイズ選手権で「Aさんの好きな色は?」とか「行きつけのお店は?」などと、「QuestionーAnswer」として答えられるようなものは、ぼくにとって、対して価値がないように思う。もちろん、そうしたひとつひとつの小さな知識が、彼女の思考体系、趣味思考、傾向、パーソナリティーを推測するには役立つだろうが、ぼくが知りたいのは、個々の事象を通して、彼女がみている世界に入り込みたい、ということだと思う。.人と人はそもそも違う。性別や肉体の違い、生まれ育った環境の違いもある。そんなことはわかって、こういうことを言っている。じぶんが好きな人が、その人が好きなものを通して、どのように世界に眼差しを与えているのかを知りたい。..


7:声が聞こえない文章.


この頃、SNSのメッセージというものが、ひどく苦手だ。端的にその理由を言えば、文章から相手の声が聞こえないような文章が、ひどく苦手だ。.ぼくは基本的に、他者からメッセージが届いた時には、他者の声で、その文章を再生しようとする。企業からのメールが届いた時には、その限りではないが、知っている個人からの文章であれば、その人の声で、その人ならこういった話し方をするだろうな、という風に声を想像して、文章を脳内で再生している。.だから、情報だけ送ってくるようなメッセージを送る人には、もれなく「くそ」とか「fcuk」などと、相手に聞こえるように声に出していう。他人にこの話をするとめんどくさがられるが、ぼくがしたいのは単なる情報のやり取りではない。というより、情報だけのやり取りをしてしまう人に、自らを自ら機械のように扱うな。と、思う。人がどのように振る舞うのかは勝手だから、何を食べようか、何を着ようが、何を口にしようが勝手だが、それを眺めているぼくも勝手に、そのことにあれこれ思う。「そんな風に自分を使うなよ」と。.例えば、ふだん使わないなうな「りょ」とか、スタンプだけを送られてくると、非常に困る。というか、ぼくは露骨に不愉快になる。その人は、そういう人だ。と思い、いつもなんとか切り抜けるが、正直、ぼくはそのような相手とは交流を保てないな、と思う。.


8:自分の扱い方が、世界の扱い方(草案)


.神経質すぎる、という人も、いるかもしれない。しかし、じぶんをどのように扱うかが、世界の扱い方だ。だから、ぼくは、自分自身(相手自身)を粗末に扱うような人とは一緒にいたくない。ものの扱い方を見れば、その人の人となりがわかる。ものを大切にしないひとに、人間を大切に扱えるわけがない。もう、書きながら、自分を糾弾しているような気分になってきたので、すこし休もうと思うが、じぶんの扱い方が世界の扱い方である。これは、今度、もう少し、丁寧に述べたいと思う。書きながら、このままではまずいな、と思うことが多々あると感じたので、これからその多々に向き合おうと思う。.

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9:他者を、じぶんの内側からちぎり離す

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24年間生きてきて、やっと、他者というのは他者なのだということがわかった。(いや、おそらく微塵もわかってないのだけど)敢えて、文章にしてみたくなるくらい、この感覚を得れたのは、嬉しい。いや、本当はじぶんの中に入っていたと思っていた他者が、ちぎりパンのように、ふわっと皿の外に出ていってしまったから寂しくもある。が、この乳離れに似た決別は、健全なものだし、ぼくは今日の夜涙を流したとしても、明日からもじぶんが使った食器はじぶんで洗おう。せめて、スポンジは水色のお魚スポンジで洗わせてください!可愛いのが好き!!!、といった高揚した気分になっている。高揚する、というのが、いたく久しぶりなので、それだけで嬉しいし、この「楽しさの世界」を誰かと共有したい。.

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10:眼前の美しさに、独り言が止まらない

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.朝5:55から一日中、文字と戯れている。疲れない時って言うのは、どうしてこうも疲れないのだろうか。16時過ぎから、「今日の空はやばい。きっと曇るだろうが、ぼくはそれでも今日の夕焼けを喜ぶだろう」と気分予報を出していた。そして、その気分予報は的中し、17時過ぎからウキウキしてしまって、18時になった頃には、脳がなにか奏でている。つまり、5:55からゆるりと登り続けた結果、脳は見事にHi状態になって、Duft PunkのArond The Worldを無限再生している。例えば、例えばだ。足裏の世界が嬉しくてしょうがない。右足裏で左足裏を触り、床を触り、本を触り、服を触り、、、と、足裏で感じる世界のざらつきに魅了され、うっとりしている。ざらつき、さらつき、ささら、ささささ。快楽というのは、そんなつもりじゃないのよ、という所に隠れていて、ある時「こっちよ」と、語りかけてくる。.そして、いよいよ、空の色が感極まって、涙が出てくるだろう、という予感をまぶたの端っこが感じ取る。カメラを手に持って玄関を開け、海へ向かう。案の定、信号待ちをしながら眺めた空は、曇り。灰色の雲の下には波打ち際、灰色の上には握りつぶしたピンクグレープフルーツ。うっとりしている。一眼レフで撮影する。と、試みるも笑ってしまうくらいに見事に電池切れだが、あたかもそんなことはむしろ準備していたのだ、というかのように足は海へ向かう。体の中に他者を感じながら、下半身のそいつに上半身のぼくは連れられて、海に向かう。上半身のぼくは、下半身のそいつのポケットに入れたiPhoneを思い出す。画素数とか、そんなデタラメなことは関係なく、ただ、ぼくが綺麗だと思ったものを、低解像度だとしても、撮影したい。高揚した時に撮影すれば、画素数なんて関係なく、なんていえばいいの。あれこれやってくれる。そして、やはり、目の前にひろがる海は、空は、色は、空気は、しぶきが、美しいのだが、これをこのまま撮っても、「そんなつもりじゃないのよ」と言った感じである。.そいつは、みるみる海へ入っていく。灰色の雲に近づいた方が、よりよく海の向こう側にいけるよ。とでも言うかのように。デタラメに足は喋り出すが、そいつの言っていることは本当で、浜で砂を足の下に置きながら眺める空と、波に衣服を濡らしながら見る灰色の雲は、まるで違った。灰色の雲にはたくさんの色が隠されている。視界は、一本の映画のように、劇劇と、その様子を変えている。登場人物なんていないし、投獄犯もいないし、感動的なヒューマンドラマがあるわけではない。が、色が変わる。雲が分厚くなり、足をさらう波の刺激は毎度、毎度、新鮮なあたたかさを残して、また次を予感させる。「なんにもお前には言わせないぞ」とでも言うかのような、空。「顔がどんどん黒くなっていくお前の声を聞きたい。いや、聞かせろ」そんな横暴な態度にぼくをさせるくらいには、灰色の雲が敷き詰められた空は魅力的だった。.もう、そんなつもりじゃないのに、写真を撮ってしまう。そんな誰に隠す必要もないのに、撮りたい気持ちを抱えているのは、もうじぶんでもわかっているのだけど、こうも魅力的なものを見せつけられると、それにまんまとのせられているじぶんが悔しい。でも、美しいから、撮ってしまう。そして、撮ることで、その写真を見ることで「わたしは、あなたをこのような形で、美しいと思っているの」という、じぶんの気持ちを知る。そして、それを撮らせるにいたった海が、空が、色が、光が、みずしぶきが目の前に堂々と存在している。こちらを見ないでほしい、もう、あなたたちには消えてほしい。けれど、まだあなたのことを見ていたい。でも、辛いのよ。と、独り言が止まらない。…….

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